第10章 楽園の果実
昔ながらの音が鳴る。
雑賀譲二はこの電話のコール音が好きだった。
「雑賀先生。お電話ですよ。」
「あぁ。今出るよ。」
なかなか出ない雑賀に焦れたように、彼女は言う。
雑賀は珈琲の香りに誘われるように立ち上がれば、渡された受話器を取った。
「はい。雑賀です。」
『雑賀教授?お久し振りです、狡噛です。』
「狡噛?随分と久しいな。」
雑賀が紡いだ名前に、彼女は息を呑んだ。
「今日?構わないが。何かあったのか?」
『少し雑賀教授に知恵を拝借したい事がありまして。同僚を一人連れて行きます。』
「分かった。待っているよ。」
そう言って雑賀は電話を切った。
「――狡噛が来るそうだ。」
「そう、ですか。」
「俺は君達が一緒に来なかった事が不思議だったがね、綾くん。」
八月二十九日に置き去り
「時代が流れた証拠ですわ、雑賀先生。」
そう言って綾はサイフォンで淹れた珈琲を渡す。
「相変わらず君が淹れた珈琲は美味いな。」
「先生直伝ですもの。」
「もうしばらくしたら狡噛が来るようだが。会って行くかい?」
「やめておきます。」
「会えない理由でも?」
探るような視線に、綾は笑った。
「相変わらず先生もお人が悪いこと。」
「君は相変わらず読めない生徒だよ。」
「光栄です。この本、借りても宜しいですか?」
「ハイパーオーツの研究本?構わないが。いつから菜園に興味が?」
その問いに、綾は笑った。
「私ではなくて連れが少し。どうでも良い事に興味を持つんです。」
「そうか。――綾くん。君は今幸せかな?」
その質問に、綾は微笑むだけで答えはしなかった。
「――先生。慎也には私がいたことは。」
「分かっている。黙っておくよ。」
綾はそっと頭を下げて、雑賀の家を後にした。