第35章 過去編:名前のない怪物
「許さない!許さないわ、藤間!殺してやる!」
「刑事の言葉とは思えないな。――仕方ない。そろそろ終わりにしよう。おい。何か言い残す事はあるか?」
「――日向チャン。ずっと好きだった――。」
その日、佐々山光留は泉の目の前で殺害された。
佐々山が絶命したのを藤間は酷く愉快そうに見下ろしていた。
その様子を、槙島は感情の読めない顔で見ていた。
「――佐々山、くん?」
泉は呆然と動かなくなった佐々山を見つめる。
そんな泉を尻目に、藤間は佐々山の遺体を解体し始めた。
「――何、してるの?」
さっきまで『佐々山光留』であったそのカタマリは、まるで肉の断片だとでも言うように無残に切り取られて行く。
その様子が記憶の中の両親の殺人現場の映像と重なって、泉は思い切り嘔吐した。
「げほっ!ごほっ!うぇ――!」
「大丈夫かい、泉。」
槙島は心配そうに泉の背中をさすれば、汚れた口元を拭いてやる。
「お兄ちゃん、なんで――!」
「なんで、彼を助けなかったかとそう問いたいのかい?」
藤間が死体を切断する音が、無遠慮に耳の中に入って行く。いっそ泉は今この瞬間に自分の耳もそぎ落として欲しいと切に願った。
「あ――、いやぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」
まるでプツンと糸が切れたように、泉が叫ぶ。
「おやすみ。泉。せめて眠っている間は良い夢を。」
槙島はそう言えば、泉の首元に手刀を入れて眠らせた。
暗闇の中を、瞳子はがむしゃらに走った。皮のローファーが汚水でまみれても、蹴躓いて膝頭に傷を作っても構わなかった。
「お嬢さん。」
「あ、あの――。私!」
突如老人に腕を捕まえられ、瞳子は恐怖を感じた。
「お嬢さん、あなた何か恐ろしい体験でもしたのかね?色相が随分濁っているようだが?」
「離してっ!」
「良い薬があるんだよ。辛い事はみんな忘れられるさ。」
そう言うと、老人は懐からペン型注射器を取り出し振りかぶった。
「扇島特製だから、間違いない。」
叫ぶ間もなく、瞳子の首筋に注射器が突き立てられた。