第3章 Sweets in the rain(紫原敦)
「わたくし達が新しい店に移る際、あなたにご挨拶をしようかと迷っていたようです。でも、どうしても彼との事を口にしてしまいそうで、あなたが傷つくのを見たくなくて、静かに去りました」
そんな事があったなんて、知らなかった。
私、ランコントルのパティシエの方には一度だけ、お会いした事あるはず。
帽子を被っていたから、髪色は分からなかった。
バーカウンターに座っていたから、彼の長身に気が付かなかった。
あれが、紫原さんだったんだ。
私の知らないところで、そんな事があったなんて。
「それに、業務上知りえたお客様の情報は、いかなる理由があっても他者に漏らしてはなりませんので」
それでも今、こうやって話してくれたのは、マスターのやさしさ、なんだろう。
さっきから驚きでいっぱいで、うまく受け答えが出来ない。
「今でも時々、みわさんの話をする事がありました。紫原は、以前と変わらぬ表情で、あなたの事を語りました。本人は無自覚みたいですがね」
マスターは、私が返事を上手く返せなくても、全く気にした様子はない。
最初に言っていた通り、独り言の体を貫いてくれてるんだろう。
「その恋が叶ったのだと知って、今わたくしはとても嬉しいのです。どこか冷めていた紫原に火を点けてくれたのは、間違いなくあなたです。ありがとうございました」
深々と頭を下げるマスター。
どこか、違う世界のお話のように、声が遠くに聞こえる。
違うよ。
紫原さんの事を好きになっちゃったのは、私だもん。
彼からしてみたら、一夜限りの遊び相手のはず。
朝、隣に居なかったのが何よりの証拠じゃないか。
かつては、私に好意を抱いてくれていた事もあったかもしれない。
でも、もう何年も前の事だ。ひとは、変わる。
「でっ、でも……あの、もう目が覚めたら、紫原さんはいなくて……私のせいです。呆れられちゃったんだと思います、多分。もう、会う事はないと思います」
「みわさん」
なんだろう、頬が濡れてる。
「恋人同士に起こる事で、片方だけが悪いなんてこと、ありませんよ」
昨日と同じセリフ。
だからねマスター、恋人同士なんかじゃ、ないんですって。