第3章 Sweets in the rain(紫原敦)
念の為に言っておくけれど、普段ならこんなシチュエーションで絶対についていかない。
彼の素性も分からないし、会って僅か数十分の関係だ。
それが、突然店に来ないかなんて怪しすぎるもの。
それでも、重い足を上げてついていってしまったのは、藁にも縋るような気持ちだったからなのかもしれない。
よく見ると、少し前を歩く彼はそれほど濡れていない。
雨が降り始めて間もなく避難したんだろうか。
髪だけは濡れていて、時折毛先から落ちる水滴が歩くペースに合わせてぴょんと躍った。
連れて行かれたお店は、住宅地の中にある小さなバーだった。
窓がなく薄暗い店内には、バーカウンターとテーブル席がいくつかあるだけ。
しっとりとしたBGMがかけられていて、なんだか居心地がいい。
正に今、自分の求めていた環境だ。
怪しいひとだったけれど、ついて来て良かった。
彼は、持って来てくれたバスタオルを私に渡すと、staff onlyと書かれた扉の向こうに消えていった。
椅子に座ると、すぐにマスターらしい初老のおじさまが話しかけてくれた。
「お客様、お疲れですね」
「えっ……そうですか? ……うん、そうかな。ちょっと、疲れました」
まるで、帰ってきた娘に話しかけるかのような優しい口調だ。
マスターのお気遣いで、メニューにはないカクテルを作って貰う事にした。
綺麗なガラスの小皿に乗せられたピンチョスを口に運びながら、辺りを見渡す。
私の他にお客さんはいない。
大雨で客足が遠のいてしまったんだろうか。
……というか、私を連れて来てくれた紫の彼、その後一度も姿を見せていないんだけど?
もしや、キャッチのお兄さんだった?
いや、そんな感じじゃなかったしな……。
少し話せるかと思ったのに、なんだか肩透かしを食らった気分だ。
……少し話せるかと思った?
私、どうしたんだろう。
知り合いでもなんでもない、ただの一時的な雨宿り仲間だっただけなのに、何考えてるんだ。
「お待たせいたしました」
カクテル・グラスに注がれていたのは、彼の瞳のような深い紫色のお酒だった。