第3章 ひやっこい薄膜。
「……なんだよそれ」
そう言って歩き出した光は、もう少し地上で時間を潰していくらしい。
このまま海に潜っても、気晴らしになるようなものがないのはわかっている。
それなら、今まで縁のなかった景色を眺めている方が気が紛れるのかもしれなかった。
「真依は……」
防波堤の先、鹿生へと続く階段が近付いて来た頃、今まで静かだった光が口を開いた。
「母ちゃんのこと、もう何とも思ってねぇのかよ」
光の口から、私の母親の話が出たのはいつ以来になるか。
私が光に助けられたあの日から、光は意図してその話を避けていた。
『あー……。なんか、ね』
きっと、私の心を壊さないように、心配してくれていたんだ。
熱い熱い夏の陽射し。胞衣が乾いて、喉が渇いても走り続けて。
その息苦しさのさらに上から、きつく固く、首が締め上げられていく感覚。
私と目が合った時の、母の絶望したような表情。
全部全部、私の中にある記憶だ。思い出したくもない、現実。
『私よりも大切にしたい人が、出来ちゃったってことでしょ』
その現実は私の心を麻痺させた。
『それで、その人と一緒に居るには、私は居ない方が良くて』
淡々と語れているだろうか。
苦しそうに、見えていたりしないだろうか。
『だから、あの時のことも仕方がないのかなって』
そう思うしかないと、どこかで諦めていた。
けれど、私の考えが間違いであるかのように、あの日の小さな私にしたように、光は私を抱き締めた。
ぎゅっときつく、あの日はなかった少しの怒りを滲ませて。
だからきっと私は今日、あの日零れなかった悲しみの涙を流すことが出来た。
「それで……真依は、ちゃんと幸せになれるのかよ」
過去を乗り越えられない私が、これからも幸せであれるのか。
そこまで、ただの幼馴染みである光に背負わせる気はない。
だって光は、私の王子様じゃないんだから。
『……みんなと笑い合える今が、不幸なわけないじゃん』
ただ言えるのは、今、私は十分幸せだってこと。
あの人が居なくても、大人からして見れば可哀相な私でも。
だから笑った。
泣き笑いでもとびきりの笑顔で、夕焼けに染まる光を見つめた。
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