第34章 薫風ーくんぷうー
大きな山蟻が羊歯を広げた蕨の茎を下って行く。明るい羊歯の色に山蟻の真黒い体がいやに映える。忙しいのだろうけれど、その忙しなささえ呑気に見えた。余程気が抜けているんだな、今の私は。
干柿さんが掴んだ手をそのままに、片手で読みかけの本を読み直す。
「変な事だけ器用ですねぇ」
干柿さんの呆れた声にふっと顔が緩んだ。
「何笑ってるんですか」
「良い天気だなあと思って」
「…本当に人の話を聞きませんね、あなた」
「聞いてましたよ」
「なら天気の話じゃないのはわかっているでしょう」
「変なところが器用だとお褒め頂いてから、何で笑っているのかとのお尋ねでした」
「…褒めてませんよ」
「あれ?」
「あれって何です。お目出度い人ですねえ…」
「有難うございます」
「…底抜けですね…」
「…底抜けですか?」
「はぁ、まあいいですよ。で?何でさっきの答えが良い天気になるんですか」
「え?だって何で笑ったかって言うから…」
「やっぱり人の話なんか聞いてないじゃないですか」
「だから聞いてますって。聞いてますよ。真剣に。真摯に。一所懸命いざ鎌倉」
「あなたいよいよ大丈夫ですか?主に頭方面…」
「…ご心配頂いてなんですがね。主に頭方面ってなんです。失礼な」
「私やあなたが失礼なのは今始まった事じゃありません」
「いやいやいや。まさかのひと括りが来ましたね。貴方と私は何につけても一絡げになりません。干柿さんと来た日には諸事突き抜けてらっしゃいますから」
「括るどころか、その点に置いては私はあなたに敵わないとさえ思ってますよ。他は兎も角馬鹿で失礼で間抜けじゃあなたは天井知らずです」
「底抜けで天井知らずって何です。私は暗黒星雲ですか」
「とうとう生き物ですらなくなりましたねぇ」
「ここぞとばかり、これ見よがしに悲しそうな顔をするのは止めて下さいよ。不愉快だな」
「悲しい顔?私が?」
「ああ、楽しい顔の間違いですか。すいませんでしたね、勘違いして」
言いながら本を膝頭の上に戻し、何の気なしに干柿さんの肩口に降りかかった白い花を摘み上げる。
甘い香り。針槐。
「花と蕾は食べられるんですよ、これ」
ふと言うと、干柿さんの目が私の目と指先の白い花を交互に捉えた。
「それ以外は有毒。不思議ですね」
見返して続けると何故か笑みが返って来た。