第34章 薫風ーくんぷうー
「良い天気ですねぇ」
膝頭に読みかけの本を伏せて空を見上げる。
白い雲が綺麗だ。
うんと伸びをした腕が干柿さんを掠めて、大きな手が私の手首を掴む。
「もう少し周りに気遣って動きなさい。人に対しても物に対してもあなたは無頓着過ぎる。あちこちぶつかってばかりいては迷惑ですよ」
あらら。またやった。
「すいません」
自分でも気にしているのだけど、気にしているだけでは気を付ける事にはならない。よろしくないのはわかっているのに、心掛けるべき事案をすぐ失念してしまう私は、もしかしなくても干柿さんが日頃散々言う通り、物凄いバカなんじゃないだろか。…いやだなぁ。
「全く…」
掴んだ手首をそのままに、干柿さんが眉を顰める。
また呆れられたなぁ。
しかし不思議な人だ。
呆れたんなら手を放せばいいのに、隣に居なければいいのに、何故かこの人は私から去らない。何度バカをやっても、呆れてくれるし怒ってくれる。
生殺与奪がどうのこうの息の根が何だかんだと隙さえあればとくとくと語るし、実際歯を折ったり斬りつけてきたりするのだから尋常ではないけれども。
でも優しい。
もしかするとそう思うのは勘違いで、馬鹿な錯覚かも知れないと思わないでもない。
でもいい。それならばそれで。少なくとも私は、私の感じるところを信じる。それにこの人に限って違っていても落胆したりしない。
この人が好きで、傍に居る事が、居てくれる事が、嬉しくて楽しくてそれだけでもういっぱいだから、こんなに満ち足りるなら錯覚するくらい何て事ない。錯覚だって構わない。全然構わないじゃないか。居るだけでこんなに満たしてくれるのならば。
すぅとまた風が吹いた。横から吹く風。藤が匂う。
「気持ちいいですね」
うん。
気持ちいい。
干柿さんと居ると思った事がストンと口に出る。これがどれだけ得難い事か誰にもわからないだろう。干柿さんにさえ。それはきっと私が幾ら好いても干柿さんの全てを知る事が叶わないのと一緒だ。でもだからこそ、些細な繋がりが滲みる。じんわり気持ちが痺れる。この人の引き出しの片隅に私が仕舞い込まれる場所があるのが、有り難くて嬉しい。
勿論そんな事は絶対言わないけれども。
言わないですよ、そりゃ。
誰にでも鍵のかかる内緒の隠し棚があるものでしょう?