第34章 薫風ーくんぷうー
一年で一番いい季節が今頃。暑くも寒くもなく、程良い風が吹き渡る夏の始まりと春の終わり。
巡る季節はどれもこれも好きだけれど、今時分の気候の心地良さは格別だと思う。風に吹かれてぼんやり過ごすだけで満ち足りた心持ちになる。
外で本を読むのが好きだ。木陰で木幹に背を預け、細やかなせせらぎの辺で足を伸ばして座ったり、そうして本を読んで時を過ごすのは本当に贅沢な事だ。
色々な香りがする。樹花に若葉、水、土、下生えの枯れた古草や、少し黴っぽい苔の匂いや。時にマッチを擦る硫黄と、煙草のいがらっぽさ。不意に鼻に付く古びた紙を匂わす本の香り。
幸せだなあと思う。
風が吹いて、後れ毛を捲く感触。
袷の袖が拐われて涼やかさが肌をくすぐる。
藤の絡まる針槐に寄り掛かって投げ出した足先の辺りを飛び回る羽虫の、頼りなげな様子を見るともなく眺める。何処からか熊ん蜂が飛ぶ唸るような羽音が聞こえて来る。
藤と針槐が強く匂う。何方も房の花だ。風が吹けば、よく揺れて、よく薫る。
「寝てるんですか」
皮肉げな声がする。ただ話しているだけなのに、何故この人の声はこう皮肉げなんだろう。性格のせいか。きっとそうだな。けれどそれが厭だった事はない。出会ってこの方、一度も。
「寝ちゃいませんが、悪くありませんね。このまま寝てしまうのも」
欠伸を漏らしながら目を向けると、伸びやかな逆光の中に大きな人影がある。辺りにそぐわない見慣れた真黒な外套が暑苦しい。
「また表で寝る気ですか。全く野放図な。その内熊か何かに喰われても知りませんよ」
言いながら傍らに腰を下ろすのは干柿鬼鮫。
丈高く手の早い異相の人。嫌味で狂暴で情緒不安定で、でも多分臆病で懐の深い面倒な相手。
私の全てを握る人。
この季節には些か間の抜けた菊が香る。
取り立てて何をしている訳でもないのに、この人からは微かに菊花が匂う。私だけがそう思うのか周知の事なのか、殊更誰かに確かめてはいないからわからないが、何より当の本人は自覚しているだろうか。
多分何も意識してはいない気がする。
他にどう思われようが一向に気にしない人だから、自分から何が香ろうが匂おうがどうでもいいと言うだろう。興の向かない事には本当にバッサリしている。引き出しがスッキリしているというか、取捨選択に容赦がない。