第21章 磯 其の二
波平様か?
振り向いた牡蠣殻はギクリとした。
海士仁。あの婚礼の日以来会っていなかった海士仁がいた。あの日と同じ青い顔で天幕の入り口に突っ立っている。
「久方ぶりだ、磯辺」
カラカラに乾いた声。物言いたげな間を挟んで、やつれた俊英は顔を背けて天幕の窓の表を眺める。
蝉の音が絶え間ない。ジワジワ、シャワシャワ。汗が卓に滴った。
暑い。
牡蠣殻は椅子を引いて立ち上がった。何と言うべきか逡巡する。様々な思いが水面で糸を引く絵の具のようにワラワラと蠢いて混乱せずにいられない。
狭まって窮屈な喉の奥から、我ながら情けない細い息が漏れた。
刹那、丈高い同門の友が目ばかり目立つ顔を振り向けた。
「・・・海士仁・・・・」
両手をかざして後退る牡蠣殻の上に海士仁の長い影が被さる。卓の文箱がガタンとずれ落ち、床にザラザラと数多の紙が散らばった。
咄嗟に失せようとした牡蠣殻の頭を、海士仁の細く長い両の手指が網のように捕らえた。
唖然として見上げる友の目に色がない。
「手荒にさせるな」
総身に粟が立った。思う間もなく蹴り上げた膝は難なく海士仁の両の足に挟み込まれる。
「頼む」
泣いているような海士仁の声に目の前が暗くなった。
誰だ、これは?
強いて息を吐いて、吸い、再び失せかけた牡蠣殻の頬を海士仁の手の甲がきつく打った。一瞬息が詰まるも歯を食い縛り、目をすがめた瞬間、激しく首根を引かれて着衣が破れる。
「・・・ぐ・・・ッ」
盆の窪に激しい痛みが走り、力任せに振られた頭が逆上せて目が回った。
冷たい感触が首筋に乗る。破れた着衣の隙から胸元に潜り込んだ手が肌を這う。
ヒッとひきつれた息が抜け、それに背を押されたように海士仁の手が胸を鷲掴みした。
ガグガグと視界がぶれる。
怖々触れる知らない大人の手。死人に触れたかのように肌を掠める彼らの手。
抱き締めてすぐ怯えたように遠ざかった母の手。最早最後に触れらたのは何時かも思い出せぬ父の手。
ドクンドクンと耳内が脈打ちで一杯になった。
嫌われているのを知らなかったなんて嘘だ。忘れて来たのだ。時をかけて接触を避けて。
思い出してしまう。
厭だ厭だ厭だ厭だいやだいやだいやだいやだ
先生じゃなくちゃ、駄目だ。厭だ。
「先生!」
叫んだ瞬間、胸をまさぐる手がヒュッと肌を離れて首に絡んだ。
