第20章 磯 其の一
杏可也と共に深水舎へ出入りするようになる前から、義理の弟、浮輪波平は深水の教え子であった。杏可也と波平の本草学の師は他でもないこの深水。
一見やる気のなさそうな波平はしかし優秀な教え子であった。何事も苦なくこなす器用な秀才で、兔角掴み所なく、そつもない。
ただひとつ、深水を微笑ましく思わせるのは、どうやらこの出来た義弟があの出来ない牡蠣殻を好いているらしいところだ。
が。
「牡蠣殻にあなたの補佐など務まりますまい」
他に言い様がなかった。
無能とは言わない。牡蠣殻は愚かな教え子ではない。しかし及び腰ですぐ逃げ出すあの投げ槍な性状では公務につく事など思いも寄らない。
「いいえ、先生。牡蠣殻は私の補佐になるべきです」
深水の反発は予測していたのだろう。波平は落ち着き払って淡々と乱れない。
「先生は長老連とは懇意になされておられますか」
意外な名が出た。
深水は眉を上げ目顔で先を促した。
茫洋とした顔に仄かな笑みを浮かべて波平は静かに話を続けた。
「牡蠣殻を外交に使おうとする動きが見られます。正直、これは好ましい話ではない」
「・・・・あれの血を使おうという話なら、牡蠣殻は外交先に身売りする事になりますな。一身で毒と薬、身ごとでなくば手に負えない」
「里長の補佐を身売りできましょうか」
「しかしそれは私情甚だしい。里の為を思う人事でなくば、私には同意の仕様がない」
「先生は牡蠣殻を見くびり過ぎてはいますまいか?首輪を外して私に磯辺を預けて下さい。あなたが見落としていた磯辺を見せて差し上げますよ」
言葉とは裏腹に、波平はおっとりと深水を見据える。
「あなたは私から姉を奪った。代わりに私に磯辺を譲って頂きたい。これは過ぎた希みでしょうか」
「比較になるものではない。話の論点がずれている」
己の顔が悪相を帯びるのがわかった。
不遜な。人と人は代えられるものではない。まして首輪とは何だ?私は牡蠣殻にそんなものをかけた覚えはない。
「では論議の正道に悖らず話しましょう。牡蠣殻を里外に渡すのは磯の利益に繋がるか否か」
論じるまでもない。答えは決まっている。波平はそれを承知で深水に話を持ちかけているのだ。
深水は波平の顔を見た。読めない半眼に真剣な色がある。それはわかる。わかるが余りに発想が若い。