第20章 磯 其の一
これでは海士仁が深水舎から遠ざかった意味がない。何故忘れさせてやらないのだ。まるで生殺しではないか。
「先生は知っているんでしょうか」
独り言するように呟くと、藻裾が苦笑いした。
「でなきゃ深水先生の蔵書なんか持って来られないでしょ?」
「・・・・ああ、成る程」
口では言ったものの、解せない。あの深水が患者を放り出して引きこもる今の海士仁にそう甘い顔をするだろうか。とは言え、杏可也が海士仁の為に黙って深水の本を持ち出すとも思えない。
・・・・まあいいか。本人らがいいならそれで。私が口を出す筋合いじゃない・・・・
幹に背中を預けて、牡蠣殻は溜め息をついた。
全く面倒な・・・
婚礼の席での海士仁の病んだ様子がずっと気にかかっていた。が、当の三人がその調子なら牡蠣殻が気に病む事もないだろう。
故なく不快な思いをさせられて、それこそいい面の皮じゃないですか。腹立たしい。
深水の側に寄るのはまだ苦しい。苦しいが時間薬と思ってやり過ごす。そもそも深水は遠い相手なのだ。何という事もない。
定期的に行われる検査が間近に迫っていた。これだけは正直、今は避けたい。検査の為とは言え、師に触れられるのがたまらなく厭だった。
自分で検査出来ればいいんだけれども・・・
検査数値の正確性を重んじる深水が許す筈もない。
海士仁なら・・・何度か先生を手伝っていたし、もしかしたら。
深水が間近にいると無意識に失せそうになる今の我を思えば、常態ではないが何の斟酌も要らない海士仁に検査された方がまだいいような気がした。
杏可也さんから海士仁に言って貰おうか。
考えるのを拒絶し始めた頭でぼんやり思う。
逃げ癖の虫に唆されている。
牡蠣殻は気付いていない。
驚く事を申し渡された。
青天の霹靂とは正にこの事。
目の前に端座する義理の弟をしげしげと眺め、深水は渋い顔をした。
「先生は反対なされますか」
細面の茫洋とした面相に僅かな笑みを浮かべて、年若い里長は真っ直ぐ深水を見返した。
反対したところで聞く耳を持たぬのだろう。
口には出さず胸の内で呟いて、深水は溜め息を吐いた。
これは明かな私情である。里の為を思う選択ではない。