第20章 磯 其の一
それから暫く、海士仁は深水舎に顔を出さなかった。ぼちぼちと担当する患者を持ち始めた矢先だった為、深水は渋い顔をしたが何も言わなかった。
杏可也も何も言わなかった。
何も言わない二人に、牡蠣殻はモヤモヤした。
よもやお二人とも、海士仁の気持ちに気付いていたのではないか。
そう思うと気が晴れなかった。もしそうだとすれば海士仁が気の毒だ。二人に知られた事を知れば、どれだけ居たたまれない心地がするだろう。いや、居たたまれないどころの話ではない。もしこれが自分の事ならば・・・。
「・・・ゾッとしますね」
「はい?どしました?風邪でもひいたか、牡蠣殻さん?」
深水舎の天幕の傍ら、楠の太やかな幹の上で、牡蠣殻と藻裾が向き合って昼下がりを憩っていた。
牡蠣殻は膝に開いた本を載せ、藻裾は幹にうつ伏せて足をぶらつかせている。
蒸し暑い空気を掻くように熊ん蜂が飛び回り、幹に落ち着いた二人の側を蟻がひっきりなしに行き来する。木の葉をそよと揺する風ひとつなく、楠の木陰も然したる涼をもたらさない夏の入りの気怠い午後。
「海士仁はどうしています?」
膝の本を諦めた様に伏せて、牡蠣殻が藻裾に目を走らせる。
海士仁は歳離れた兄である藻裾の父の元に身を寄せており、離れ住みとは言え藻裾と同居していた。
「海士仁デスかァ?」
半目を閉じて午睡に入りかけていた藻裾が、大儀そうに目線を上げた。
「アイツなら離れの天幕に閉じ籠りきりですよ。何やってンだか、天照大神気取りで岩戸を立てたまんま出て来やしねえ。たまに杏可也さんが様子を見に来てくれるんですが、そンときだけですね、人に会うのはさ」
思いがけない名を聞き咎め、牡蠣殻は眉を潜めて身を起こした。
「杏可也さんが海士仁に会いに行ってるんですか?本当に?」
「来てますよ。退屈してちゃ可哀想だって深水先生の本を携えて、全く過保護だね、深水舎はさ」
面白くもなさそうに答える藻裾は、厳しい事で有名な舎に属している。武術を主に教える彼女の舎は、数少ない門弟に媚びる風もなくひたすら容赦ない。
「バッカみてェですよ、振られた相手にデレデレしちゃってさ。海士仁があんなヤツだたァ思わなかったスよ」
「・・・酷な事を・・・」
歯痛を堪えるような顔つきで牡蠣殻は固い声を洩らした。