第20章 磯 其の一
否、半ば気付いていながら流し、半ば気付かずに流していた。
そこから齟齬が生まれる。
「磯辺さんは先生のお話なら結局何でも聞いてしまうのですね」
ある日不意に杏可也がポツンと言った。
「慕われておりますわね。よい先生な事」
何故か知らん、杏可也にそう言われるのは好ましくなかった。この人には、医師や教師としての深水ではなく、一人の男として、一平として見て貰いたかった。
と言って、杏可也が可愛く思う牡蠣殻に、己が慕われているとは悪い気がする訳がない。
「巧者のあのコが逃げもせず話を聞くのはあなたにだけ。余程信用されているのですね」
杏可也の笑顔が甘い。深水は自分が蟻か甲虫にでもなった気がした。
恋入るとはかくも愚かな事。
杏可也は甘く、柔らかかった。
積年の恋心で以て、深水は杏可也の蜜壺に溺れた。
牡蠣殻は深水の恋も海士仁の恋も知っていた。
「ヤツァ失恋だ。やっぱアレっスかね?オタクに恋は難しい?」
藻裾にも見えていた海士仁の心は、一平と杏可也の結婚で破れた。
「オタクに恋は難しい?確かに海士仁はオタクと言えばオタク、医療オタクですが、要は先生より野暮だったという事でしょうよ」
苦笑いで答えた牡蠣殻に藻裾はヘッと鼻を鳴らす。
「野暮なモンですかよ。あいつァあれでモテんですよ?知らないんスか」
「そう。知らなかったな」
初恋?・・・・うん。恋だったかもしれない。先生が好きだったんだ、多分。今こうも寂しいのはそういう事なんでしょう。
何だ、案外ツンデレですか、私は。
困らせてこっちを見て貰おうとするのはツンデレとか言うんでしょう?アレ?違う?
まあいいや、どっちだって。
深水の人懐こい笑顔に胸が微かに痛んだ。杏可也の優しい目配せには、更に胸が痛む。
二人とも好きなら、これは幸せな事だ。こんな気持ちでいるのは二人を欺くも同然。第一、私は先生の傍らになんか正直落ち着いて立っちゃいられないでしょうよ。無理無理。改めて無理。互いに寿命が縮むのが目に見えるようです。杏可也さんで正解。
忘れるのが善し。
「磯辺」
フと麝香と茉莉花が香る。声を聞くまでも振り向くまでもなく、誰が現れたかわかった。この頃好んでこの香を纏わらせている者と言えば。
「海士仁。来ていましたか」