第6章 馴れ合いと暗躍する影
柔らかい、いい匂いがする。
毛先を鼻に近づけてすんと嗅いで、暫し楽しんでいると、お香は困ったようにあの、と言う。
「これは…失礼しました。あなたが余りにも魅力的だったもので、つい」
やや上目遣いでお香にそう言うと、その頬は少し朱に染まった。
お香はああ、と納得する。
惑乱とは、この瞳の事を言うのだろうと。
深く濃い紅い瞳が己の芯を貫くように射止めてくる。
本人は意識しているのかどうか、もししていないのだとすれば罪深い事だ。
毒のようにも思われるこの乙弥という男、見た目や声は少年のようだが、その瞳には万人を惑わす力を秘めている。
コホンと咳払いして気を取り直すと、またまた、お上手ねなどと内心を悟られぬよう誤魔化すようにそう言った。
(…まただ、変な事は言ってないはず。相手を探るために見ると、皆ソワソワするんだよな。睨んでるつもりはないんだけど)
叶弥は全くもって無自覚な為、やや首を傾げて顎に手を当てるのだった。
「おー、終わったでぇ……っと、お香さんかいな。珍しい方がいらっしゃったのぉ」
ヤカンカンから出てきた檎が声を掛けてきて、珍客の来訪にニコニコと愛想を振りまいた。叶弥は助かった、とばかりに片手を振りながら檎へと駆け寄る。
その後ろ姿が懐いた子犬の様にも見えて、お香はクスと笑った。
「乙弥さん、噂通りの方ねぇ。お店が繁盛するのもうなずけるわ」
「いやあ、いい従業員を雇ったと思いますわ」
二言三言会話を交わすと、今度はお客として来させてもらうわね、とお香は叶弥に手を振って去っていった。
「罪作りやなぁ”乙弥“は。大方流布されとる異名を確認しに来たんじゃろう、店仕舞の時間を見計らって」
「…まさか。わざわざ私を見に来たというのか?」
「あの方はこの衆合地獄の官吏じゃからな、ぽっと出のオマエさんが気になったんじゃろうて」
ああそうか、お香さんはそういう役職の人なのか。
浅い知識をたぐり寄せて、お香が鬼灯と懇意にしていたことを思い出す。
あんな奴と普通に話せる位の人だし、やっぱりすごい人なんだろうと叶弥はひとりで納得していたのだった。
檎は去り間際に耳打ちされた、お香の一言を反芻していた。
「乙弥さんは麻薬みたいな人ね」
ここにも被害者が出たか。
赤黒い空をぼんやりと見上げる叶弥を見てひとりごちた。