第2章 レーゾンデートル
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(…面倒だ、もう1回寝るか)
脱出を諦めたカナヤは、少し身じろぎしてヒルメスの腕に蹲るようにして瞳を閉じた。
まだ辺りは暗く、朝まではもう少し掛かるらしい。
寝つきがいいらしいカナヤは程なくして眠りに落ちた。
少ししてヒルメスが目を開ける。
「寝てるのをいい事に色々言ってくれたな」
正しくは狸寝入りだ。
カナヤがうなされているあたりから、実はヒルメスは目が覚めていた。
思っていることが口に出ているのに気が付かなかったらしい、ブツブツと自分の批評を始めた辺りはおかしくもあったが、後半は余計なお世話だと思うのも当たり前と言うもの。
それより、うなされていた時に漏れた言葉。
(カノン、誰だそれは。記憶が戻りつつあるのか)
ここ幾日でカナヤが記憶喪失であることが分かったのだが、時折何かに気づくような仕草を見せることがあった。
決まって見せるのは、どこか遠く懐かしむような、愛おしむような目。
何故かそれが気に入らなかった。
記憶喪失ならもう何も思い出さずにそのままでいればいいのにと、これまでにない執着心に戸惑いこそすれ、それが気持ちよくも感じられた。
楽しいのだ。
これまでの人間は己から発せられる狂気に畏怖や恐怖、或いはそれに乗じて利害関係を結ぼうとした接し方をして来ているが、カナヤにはそれがない。
先ず自分に対する恐怖心が感じられないのだ。
女だからと媚びたりもしない。
付かず離れず、つかみ難い、飼い慣らせない生き物。
常日頃から取り巻くどす黒い空気とはちがう。
その空気に、カナヤに触れたくなるのは、癒されたいからだろうか。
深く寝入ったらしい息遣いに、ヒルメスはじゃあお構い無くとばかりに抱きすくめる。
自分の血にまみれた腕とは違い、汚れを知らぬような細い肩。
そう考えたら、抱きしめることも一瞬躊躇われた。
だが今はこの温もりを手放したくはない。
額の髪を撫で上げて、何度か唇を落とす。
最後はその温かさを惜しむように長めに押し当てると、カナヤの頭をそっと抱え込んで、浅い眠りにもう一度身を委ねた。
今度は涙を流すような夢を、彼女が見ないで済むように。