第1章 その香りの先に
「奴ら、徒歩で山を降りて行きましたよ」
「ほう、ご苦労なことだ。しかし徒歩では今日中に麓へは着けぬだろう」
「熊や狼に出会わぬといいがな」
ナルサスの山荘を後にして潜んでいる、非常に奥深く広い作りの洞窟。
偵察から帰ってきたエラムの報告にそう話すナルサスとダリューンは、もちろんカーラーンの部下を心配などする様子は微塵もない。
ククク、と意地悪く笑うナルサスの目線は、奥で馬と戯れているカナヤへと向けられた。
そう、ナルサスは落とし穴に落ちた者たちが乗っていた馬全てを拝借しているのだ。拝借という言葉には語弊があるかもしれないが。
馬がなければそう簡単には山を降りることは出来ない。加えてすでに自分たちを捕まえんと待ち構えているであろう敵に、報告の遅れを生じさせ、その間に自分たちはその包囲網を突破する算段をする、といった具合だ。
「しばらくこの洞窟でやり過ごしましょう」
カナヤといえば、カーラーンの部下たちの馬に餌をやりながら、彼らの話に聞き耳をたてていたのだが。
(相関図でも作らないと、誰が誰だかわかんないや・・・)
自分が思うよりこの脳みそは狭量らしい。
難しいことはわからないし、実のところまだ夢なのではないかとさえ思えてくるのだ。
ブルル、と一頭がカナヤの髪を食む。
「ちょ・・・私は草じゃないぞ、うひゃ」
よくわからないが馬に嫌われているわけではないらしい。
くしゃくしゃになりながら馬の首を撫ぜると、目が合った気がした。
「・・・おまえ、あんな乱暴そうな奴のとこから逃げられてよかったねぇ。生き物に優しそうな感じでもなかったし」
脳裏をよぎったのは、アトロパテネでの惨状。
人だけではない、足として使われる馬も、無数に横たわっていた。
いつだって割りを食うのは、弱いものなのだ。
「う・・・」
一瞬、目の前を灰色の世界が過ぎる。軽く目眩を感じるとそれを振り払うように頭を振った。
「随分懐かれているようだな、カナヤ」
「アルスラーン殿下」
「その服もよく似合っている。女物の服がなくて申し訳ないのだが…」
「いーえ、ヒラヒラしたのより私はこっちのが好きです!」
えっへん、と言わんばかりに胸を張りながらそう言うカナヤに、アルスラーンは、それはよかった、と笑った。