第1章 その香りの先に
(なぜ私は失う辛さを理解出来るんだろう、私には失うものなどないのに)
記憶喪失であるという事実をまだ完全に受け入れきれてはいない。だが、実際問題自分の事が全くわからないという状態で、他人の気持ちが分かるような感覚になるというのも、何故だか変な感じだと思ったのだ。
矛盾だらけ袋小路。
なまじ言葉を解するからこんな気持ちになるのだ、いっそのこと名前も言葉もわからない、でくの坊であれば良かったのに。
相手に対して抱いた『同情』『共感』。
自分自身がひどく汚い偽善者なのではとカナヤは感じた。
天井裏での彼らの葛藤や静かな憤怒の一方、ナルサスと言えば、カーラーンの部下だという者に麾下に入らぬかと問われ─しかしそれは、断れば即座に切って捨てると言わんばかりの様相であった。
その手は腰に携えた剣に触れており、いつでも抜けるようにしているのだ。
ナルサスはそれに気づいていながら不敵な笑みを浮かべたかと思うと、臆することなく言い放つ。
「では帰ってカーラーンの犬めに伝えてもらおう!腐肉は一人で喰え、ナルサスには不味すぎるとな!」
蔑み拒絶したナルサスに一斉に食ってかかる数名のカーラーンの部下たちは一瞬の滞空の後
それは見事に地面に落下していった。
「うわぁ……」
ナルサスの策だったのか、カナヤは仕掛けられた罠に実に気持ちよく見事に嵌った彼らに、心中で因果応報だと思うのであった。
もう安全だとの判断でカナヤ達は天井裏から降り立つと、大声で喚いているカーラーンの部下たちにダリューンは鋭い視線を飛ばす。
その殺気とも取れるものに慄くカナヤに気付いたナルサスは、静かな声で彼をたしなめたると、すまない、と一言もらすだけ。
アルスラーンの顔には悲痛の色が濃く、絞るような声で後悔の念を吐き出すのだった。
その後ろで蚊帳の外であったカナヤは、彼らに掛けるべき言葉が見当たらずにそっと見守るしか出来なかった。