第1章 その香りの先に
部屋を出たカナヤは、急に慌ただしくなった空気に周囲を見回した。
(馬の蹄の音?)
「見覚えがある、カーラーンの部下だ」
「ほう、お前を探してここに来るとはいい読みをしている」
(……さっきの音といい、なんか不穏な感じ。話しかけづらいな…)
完全に声をかけるタイミングを逸したカナヤは2人の様子を伺っていると、傍にいるアルスラーンの袖を引いた。
(あの、あっちの白いのがナルサスさんで黒いのがダリューンさんですか?)
(あ、ああ、そうだ)
コソコソと話し合う2人だが、カナヤの白いの黒いの発言におかしくなって俄に肩を揺らす。
(?)
悪気が皆無なカナヤは小首をきょとんと傾げていると、ナルサスに天井裏へ隠れるように言われ、慌てて姿勢を正した。
「目を覚まされたのですなカナヤ殿。色々聞きたいこともあるのですが、今はそんな悠長なことをしている暇は無いようです。さ、彼らに続いて下さい」
最後に登ったカナヤは、梯子を引き上げる際にエラムとはたと目が合った。
特に感情が見えない新緑の瞳はじぃ、と彼女を探るように見ると、直ぐ目線を逸らした。
(布団を用意してくれたのも彼だっけ、ちゃんとお礼しないとな)
パタンと天井裏の扉が閉じられると、間もなく来るであろう「敵」に感づかれまいと息を潜めた。
待ち構えていたナルサスとエラムの前に、ドカドカと無遠慮に押し入るようにして厳つい男達が入ってくる。
「先年までダイラムの領主であったナルサス卿…それに相違ありませんな?」
「今は一介の隠者に過ぎぬ」
「ナルサス卿ですなっ!?」
ピリピリした空気を感じるカナヤはひたすら息を押し殺していた。
話している内容はよくわからなかったが、ある単語を耳にしたアルスラーンとダリューンが息を呑むのが分かった。
(え、死んだって…晒されるって、まさか)
ダリューンの身体が怒りで揺らぐ。
と、ミシッと嫌な音が響いた。
「何の音でござる?」
「野ねずみですよ」
さして気にも止めるでもなく、ナルサスは続けた。
隣の隣から漂う怒気を孕んだ空気にカナヤはそちらを見やると、ダリューンは口元に力を込めて絶えているようであった。恐らくは知り合いなのだろう、その怒りは想像に難くないと思った瞬間、記憶がない己のその感情に違和感を感じた。