第1章 その香りの先に
オオガミ カナヤ
それがこの世に生を受けた私の名前である。
面白い事に、それ以外の記憶が無くなっているようだった。
……いや、実際は全く面白くもなんともないのだが。
おぼろげに蘇るのは、戦場と思しき場所で私が倒れてしまったこと。その後に彼ら、アルスラーン達に救われたこと。
私は改めて自分自身の姿を部屋に据えられた桶の水鏡で見やるのだが、なんだか凄く違和感を感じるのだ、果たしてこれが『私』であるのかと。
感じた不安に、自身の頬をなぞる。
頭に思い描くのは己の出自についてだった。
アトロパテネ会戦。
すべての始まりになった件の戦いの中、何故か私はそこにいた。思い出したくもないのだが、今の私に繋がるものがそこからしか無いのだから思い出さないわけにもいかなかった。
(なぜあんなところにいたんだろう・・・それ以前のことが全く思い出せない)
今でもはっきり残っている生暖かい感覚。血の匂い。
金属がぶつかり合うような音と、それから・・・
「キンモクセイの香り・・・」
私はどこで生まれたのか、家族はいるのか、そもそも何であんなところにいたのか。
名前以外思い出せない私は、いわゆる記憶喪失の状態らしかった。いや、喪失というより蓋をされている気がしないでもない。その奥を覗こうとするも、固く閉ざされてしまったような感じなのだ。
「カナヤ?」
不意に声をかけられて意識を引き戻された私は、バツが悪そうに顔をしかめて声の主を振り返った。
「アルスラーン殿下」
「もう、起きて良いのか?身体は大丈夫なのか?」
「はい、平気です・・・それよりすみません、寝すぎてしまったみたいで」
「よいのだ、まだおぬしも混乱しておろう?あまり無理はしないほうがいい」
「・・・ありがとうございます」
平気、と答えた私に苦笑を漏らしながら眉尻を下げるのは、次期国王とされている・・・らしい、アルスラーンその人だった。
夕べ、あらかた説明を受けてはいるのだが、実際のところ全く実感が湧かないのだ。
何故か自分がすごく場違いな存在な気がして、なんだか縁遠い存在な気がして。