第55章 アイシテル
勢いのままその華奢な身体を抱きしめて、今すぐにキスしたい。
はやる心にブレーキをかけながら、黄瀬は結の前に静かに立った。
「お待たせ」
「卒業……おめでとうございます」
小さく鼻を啜りながら、満面の笑みでお祝いの言葉をくれる彼女自身の口から、涙目の理由はきっと聞けるはず。
「ありがと」
「よく無事でしたね、そのネクタイ」
いわゆる学ランと呼ばれる詰襟の制服が少なくなった今、第二ボタンに代わり争奪戦の標的になっているのはネクタイだった。
「ん、これっスか?」と視線を落とした黄瀬は、胸で揺れるそれを持ち上げると、指先でもてあそんだ。
『き、黄瀬君!記念にネクタイくれませんかっ!』
玉砕覚悟で、式を終えた黄瀬に群がる女子生徒は無数にいたが、彼にはシャツのボタンひとつ渡すつもりはなかった。
(オレのすべては結のものだから)
この指も
この腕も
愛をささやくとっておきの声も
聖なる夜に彼女の視界を奪ったこのネクタイも
「すげぇ燃えたっスね。あの夜は」
「……な、っ」
そう言ってネクタイを口で噛む黄瀬の意味深な笑みに、音を立てて染まる頬に思わず触れた指先が、たちまち熱を持つ。
(あぁ……オレやっぱ結じゃないと)
じわりと汗ばむ手のひらを滑らせた上着のポケットの中で、ベルベット素材の小さな存在を確かめると、黄瀬は大きく息を吸った。
「結。これ……」
小首を傾げる結の目をまっすぐに見つめながら、黄瀬は握りしめた手のひらを彼女の目の前に差し出した。
「受け取って、くれる?」
淡いブルーのリングケースを目にして、驚いたように数回瞬いた彼女が小さく息をのむ。
バイト代をすべてつぎ込むつもりで入ったジュエリーショップで、ガラスケースの前を行ったり来たり。
(オレも今、腹をへらした熊みたいに見えるんスかね)
ざわつく店内に構うことなく、ただ彼女のことだけを考えながら選んだのは、誕生石が埋め込まれたシンプルなデザイン。
指輪の裏に刻む言葉を口にしようとして躊躇したのは恥ずかしかったからではなく、彼女以外にこの言葉を聞かせたくなかったから。
「宜しければこちらに」と気の利く店員が差し出す一枚の紙に、ゆっくりと走らせたペン先がわずかに震えた。