第55章 アイシテル
まだひんやりと頬をなでる風も、あとひと月ほどで春の装いに着替え、満開の桜を揺らしながら初々しい顔を迎えるのだろう。
入学当初は迷子になりそうだった校庭に、広いストライドを刻みながら、黄瀬は三年という時をともに過ごした景色に目を細めた。
憂いを含んだ横顔と、まるで動く写真集を見ているような優雅な身のこなし。
そこだけスポットライトが当たっているかのような圧倒的なオーラをまとう彼に、声をかけようとした女子生徒は足を止めざるを得なかった。
せめて同じ学び舎で過ごした最後の思い出にと、携帯を向けた指はシャッターを押すことも忘れ、液晶越しの画像に見惚れるばかり。
うっとりとした眼差しを一身に浴びながら、軽やかな足取りで校門を目指す黄瀬の表情は、今まで誰も見たことがないほどに穏やかで、そして美しかった。
「お。発見」
卒業生だというのに校庭に入ることもせず、校門の外に佇む姿に口許をほころばせた黄瀬は、速度をあげようとした歩みを一瞬止めた。
彼女はひとりの女子生徒と話をしていた。
背中にピリリと走る緊張感を、だがすぐに拭い去ってくれたのは、遠くからでも分かる彼女の弾けるような笑顔。
(もしかして……)
黄瀬にはピンと来るものがあった。
黄瀬涼太の恋人という立場の彼女に嫉妬し、一度だけ危険な目に合わせてしまった過去を忘れたことはない。
あの身も凍るような感情を。
足元から這い上がる激しい怒りを。
そして、何らかの理由があって巻き込まれたであろうひとりの女子生徒のことを、苦悩しながらもずっと気にかけていた彼女の優しさを。
頭を何度も下げ、女子生徒がパタパタと走り去っていく姿を見送った後、ふと動いた彼女の視線が、自分の姿を捉えてふわりと和らぐ。
何も聞かなくても、その晴れやかな表情を見れば分かる。
彼女の憂いが晴れたのならそれでいい。
(これからは絶対にオレが守ってみせるから)
頼ることを良しとしない頑固な恋人には怒られるかもしれないが。
「……結」
自然と口からこぼれ落ちる名前が、こんなにも胸を熱くするなんて知らなかった。
空っぽだった心をこんなにも満たしてくれるただひとりの愛しい人。
一秒でも早く、一秒でも長く隣に。
ゆっくりと前に踏み出した足はいつしか、地面を力強く蹴りあげていた。