第55章 アイシテル
バスケの選手なら誰もが夢みるNBAからの誘いを断るなんて、どうかしていると思わなくもない。
自分でも気づかないほどのかすかな迷いが、彼女には見えているのだろうか。
だが、そっと閉じた瞼の裏に浮かぶのは、スポットライトが舞う華やかなコートではなく、上下関係にうるさい体育会系の、少し面倒で、でも確かな絆が感じられる仲間達と出会える場所。
戸惑いゆらめく瞳に、黄瀬は片肘をつきながら優しく笑みを返した。
「ん~確かにバスケの本場アメリカでプレイ出来るのは魅力的だし、もしかしたらこんなチャンス二度とないのかもしれない。でも、不思議と今は後悔も未練もないんスよ。オレにはまだ、ここでやるべきことがある気がして」
「黄瀬さん……」
「だからこれからもオレの隣で、オレだけを見ててくれる?」と額を合わせてささやく声に、こくりと頷く彼女の前髪が鼻をくすぐる。
なんて幸せな瞬間。
初恋を知ったばかりの少年のように胸がムズムズする。
「ごめんなさい。変なこと言って……」
「謝んないでよ。結がオレのことを思って言ってくれてんのは、ちゃんと分かってるから」
何が正しくて何が間違っているのか。
そこに正解はない。
今は最善だと信じて進んだ道の先でつまずき、自分の選択を後悔する日もあるだろう。
それでも人は歯を食いしばり、涙を拭い、前を向いて生きていくのだ。
ただ、愛する人が隣にいてくれるのなら、そんな人生も悪くない。
黄瀬は、まだ落ち着きなく視線を泳がせる結の頬に唇を寄せた。
「な~んかまだ納得いかないって顔してんね。どーしたんスか?」
「う」
分かりやすく顔色を変える彼女を放って置く手はない。ベッド以外で主導権を取れるチャンスはそう多くはないのだから。
「オレに隠しごとっスか?」
彼女の心を暴くのは簡単だ。
嘘の下手な唇にキスを落とすと、その口からこぼれるつぶやきをしばし待つ。
「そ……うじゃなくて。その、何ていうか……あのユニフォームを着た黄瀬さんを想像、してしまって」
「へ」
「きっとすごく似合うだろうな……って思っただけ、なんです」
「思っただけ……って」
逆襲を受けることも、今すぐ押し倒したくなる衝動にも慣れたつもりだったのに。
「以上です」と会話を終わらせようとする恋人に、黄瀬は小さく笑った。