第51章 キスミー
楽しい時間はいつもあっという間に過ぎてゆく。
少しのウィンドウショッピングの後、待たされることもなく案内された店で食事をすませ、帰宅するための電車に乗り込む足が少し重い。
「意外と混んでますね」
「週末だからかなぁ。あ、こっちこっち」と大義名分を得た手に引かれて、追いつめられた扉の一角。
わずかにざわつく車内を気にすることもなく、黄瀬は結を周囲の視界から隠すようにポジションを取った。
「ちょっと近すぎじゃ……」
「大丈夫だって。別にキスしてるわけじゃないんだし。それとも……して欲しい?キス」
「……このままでいいです」
余裕のある笑い声が悔しくて、何気なく見上げた視界に映るのは、窓の外を眺める恋人の横顔。
度の入っていない眼鏡の奥で、魅惑的な瞳を縁取るまつ毛は緩やかなカーブを描き、筋の通った高い鼻と、引き締まったうすい唇は今日も変わらずに美しい。
直視出来ずに思わず目を逸らせた先、車窓越しに絡む視線が、切なげに揺らいだ。
「やっぱ、モデルの仕事断ればよかったかな……」
『どうしても黄瀬涼太でいきたい』というオファーを引き受けたことを後悔する声が、溜め息とともにつむじを揺らす。
「撮影、大変だったんですか?」
「そーじゃなくて……せっかくのオフだったんだから、結ともっと一緒にいたかったなぁと思ってさ」
弄んでいた髪を耳にかけ、その輪郭をなぞる指が思わせぶりに耳朶を弾く。
温度を感じないはずのそれが、カッと熱を持つ。
「あれ?なんか顔赤いっスね。混んでるからかな、暑い?」とマフラーの隙間から首に触れる手に、ぞくりと背筋が震えた。
もっと触れて
身体の奥まで、その指で
触れられた場所から全身にじわりと広がる熱は、シンプルであさましい欲求。
結は傷の癒えた唇を小さく噛むと、目の前のアイスブルーのセーターに頬をすり寄せた。
「私も……もっと一緒にいたい、です」