第48章 オンリーワン
この時間まで講義がある教室はあまり多くない。
静まり返った廊下に、音を立てないよう神経を研ぎ澄ませながら、結は震える足に力を込めた。
小降りになった雨の中、傘もささずに走ってきたせいで、なかなか呼吸が整わない。
気持ちばかりが先走って、長くない足が何度も縺れる。
ひとつひとつ教室の中を覗く度に、寿命が一年ずつ縮む気がした。
(ここが最後……)
三階の奥にある小教室までたどり着いた結は、息を大きく吸いこむと、引き戸にかけた手を止めた。
あんな風に拒んでおいて、どんな顔をして会えばいいのだろう。
そもそも、彼がここにいるとは限らない。
(怖、い……)
手を引っ込めようとした結は、まるでその臆病さを見透かしたように音を立てる扉の向こう側で、所在なげに佇む黄瀬の姿に息をのんだ。
不自然にひきつった唇と、瞼を腫らせたその表情に、いつもの輝きはなかった。
「……黄瀬さ」
「ゴメン、来ちゃった」
文字どおり濡れねずみといった姿で儚く笑う黄瀬の、淋しげな瞳が胸に刺さる。
「……練習、は?」
「ヘヘ。サボったっス」
濡れた髪を掻きあげた拍子に、鈍く光る左耳のピアス。
それは、一年前の誕生日に、永遠に変わらない気持ちを込めて贈った小さな輝き。
「っ、ば……馬鹿……っ!」
どうして言葉は、自分の思う通りに出てこないのだろう。
ただ好きだと伝えることが、どうしてこんなにも難しいのだろう。
勢いよく飛び込んだ胸に顔をうずめ、背中に回した腕で言葉の代わりに冷えた身体を抱きしめる。
「ちょ……っ、待って!結まで濡れるから」
「……そんなの、いい」
濡れた制服から漂う独特の匂いと、いつもと変わらない香りに包まれて、こらえきれずに嗚咽が漏れる。
「っ……ごめ、な……さい、私」
「なんで……なんで結が謝るんスか」
「だって……、ッ」
息が止まるほど抱きすくめられて、踵が浮く。
音を立てて落ちるバッグの中で、携帯がまだ何かを知らせるように床を鳴らす。
「りょ……た」
だが今は、目の前の奇跡を抱きしめること以外、何も考えられない。
「……結」
強く、たくましい腕に包まれながら、結はひんやりとするシャツに頬をすり寄せた。