第48章 オンリーワン
内腿のしなりと、指に纏わりつく波がおさまるのを待って、黄瀬はゆっくりと腕を引いた。
声を抑えるためだけに噛みついた唇から離れ、口内にかすかに広がる血の味を、荒い息とともに飲み込む。
「結……」
押さえつけていた手首を解放しても、ピクリとも動かずに震える身体を、黄瀬はうわの空で見下ろした。
征服欲を満たしたはずなのに、心は乾いたままだった。
「……ど、して」
ダイニングの灯りでおぼろげに浮かびあがる唇が、かすかに動く。
わなわなと震える唇と、涙で潤む瞳が、悲しみの色をたたえて黄瀬の目の飛び込んできた瞬間、パンと乾いた音が静かな部屋に響き渡った。
頬に感じる熱と、大きな瞳からポロポロとこぼれ落ちる涙に、黄瀬はようやく自分のしたことの重大さに気づき、身震いした。
「…………結、ごめ」
「どいて」
身体を押しのける手に、黄瀬はとさりとソファに崩れ落ちた。
何ヲシタ
ドウシテコンナ事ニ
(謝らなきゃ)
だが、痺れた舌が、ヒリつく喉が、その行動を突っぱねる。
鼻を啜り、身づくろいをする音をぼんやりと聞きながら、黄瀬はガンガンと鳴り響く頭をソファの背に打ち付けた。
(早く、何か言わないと)
たとえどんな理由があろうとも、言い訳にしか過ぎないとしても、ちゃんと話をして謝らないと。
「ち、違う……オレ、こんなことするつもりじゃ……っ!」と悲鳴にも似た叫びとともに黄瀬は顔をあげた。
「…………結……?」
だが、返事が返ってくることはなかった。
ひとり取り残された部屋に、心が一瞬で凍りつく。
「オレ、何やって……」
床に落ちたクッションを拾い上げ、ぽんぽんと形を整えてから、ソファの定位置に戻す。
手に触れるのは、温もりをなくしたブランケット。
行き場のない感情のはけ口を求めて大きく振りかぶった腕を、黄瀬は宙でピタリと止めた。
大事な手だと優しく包み込んでくれた記憶が、胸を締めつける。
(その手で、オレは何をした)
力で押さえつけ、荒ぶる感情のままに一体何を。
「……結」
色を失った空間に、繰り返し名を呼ぶ声だけが、むなしく溶けていった。