第33章 サイン
「じゃあ結ちゃん、おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみ、なさい……」
リビングで寛ぐ黄瀬の両親に就寝の挨拶をする声が、足が、震えている気がした。
どうしてこんな状況になっているのだろう。
黄瀬家で夕飯をご馳走になるのはともかく、初めての風呂場では緊張のあまり何度も転びそうになった。
そして、客間にでも泊まるのだろうと思っていたのに、二階にあがるということは行き先は黄瀬の部屋。
もう頭はまっしろだった。
『今日はうちにお泊まりすることになったんスよ』
『寝言は寝てから言ってください』
『いいから早く準備して。じゃないと、オレが荷造りしちゃうよ。確かここに可愛い下着が……』
『ぎゃっ!変態ですか!?』
『じゃ、早く支度して』と急かされるまま最低限の荷物を詰め込んで階下に降りると、母親にも笑顔で送り出されて。
(あれは追い出すって感じだったけど……一体、何が、どうなって)
いつもなら階段の下までついて来て、苦言を呈する彼の母親も、今日はただ優しい目で見送るばかり。
(もしかしてパラレルワールドに来ちゃったとか?)
「い、いつの間に……」
「何ブツブツ言ってんの?」
ベッドの枕元に灯るオレンジの光。
穏やかな夜の海のように波打つベッドも、下に家族がいると思っただけで全く別物に見えるから不思議だ。
「ごめん、強引に連れて来て。ちゃんと説明するけど、とりあえずギュッとさせて」
手を引かれて潜りこんだ布団の中、いつもと同じマットの弾力に少しの安堵感。
吐いた息とともに肩から力が抜けていく。
「説明……は?」
「ん〜?ここんとこハードな練習ばっかで、ちょっと疲れが溜まってたんスよ。てことで充電、させて」
嘘が下手な腕はどこまでも優しくて。
結はずっと張りつめていた緊張の糸をほどくように、その温もりに寄り添った。
「あったかい……」
「そーいえば、なんか身体冷えてるっスね」
六月だというのにひんやりする爪先を温めようと、絡めた足が薄い掛布団を乱す。
「あ、駄目ですよ!黄瀬さんが冷えちゃうから!」
「平気だってば。それよりも……あぁ、やっぱ手も冷たい。ホラ、貸して」
心を溶かす優しい声。
固く引き締まった胸に顔をうずめると、結はじわりと熱くなる目を静かに閉じた。