第81章 そして誰もいなくなった
「ふひ、ひ」
くふりくふりと、息が漏れる。
目の前のワンピースが、音に合わせて揺れる。
嗤っているのは、紛れもなく目の前にいる体。
「ふひひひひ」
謎の嗤い声。
謎の人物。
本来なら叫び出したい所なのに、何故か体が硬直して動かない。
(逃げなきゃ)
そう思うのに、足も手も目も口も動かない。
「ふひひひひひふ、ひ。ふひ。ひひひひひひ」
不協和音。
くふりくふり、ぐぷり
何かが溢れるような音が嗤い声に混じる。
ぐぷり、ぐぷり
(何───)
凝視したワンピースが、じわじわと何かに染まっていく。
黒い液体。
はっきりとは見えないが、南の鼻を突いたのは知った臭いだった。
(血?)
気付けばそれは、視界に映る小さな手もウェーブのかかった長い髪にも、こびり付いていた。
タールのように真っ黒な、錆び付いた鉄に似た臭さ。
ぬ、と真っ黒な手が眼下に差し出される。
限界まで見開いた南の眼球を、押し潰すように。
異臭を放つ黒塗りの歪な手が、南の視界を覆った。
「わずれるな」
ぐぷり、と溢れる。
「南?」
「きゃあうッ!?!!」
ぽんと肩に触れられ、声と体が跳ね上がった。
「っ!?ど、どうした」
「ぁ…っ…は、はん、ちょ…っ?」
体を縮ませ振り返った南の目の前に立っていたのは、驚いた顔のリーバーだった。
硬直していたはずの体が動く。
ぽかんと見上げた南は、そのまま唖然と辺りを見渡した。
暗い棚の通路。
開きっ放しの床下倉庫。
この場にいるのは、リーバーだけ。
「あ、れ……此処に、今…」
(誰かが、いた、…はず、)
「此処に?なんだ?」
「…人が…」
「人?」
唖然と辺りを見渡す南に、リーバーの顔が怪訝なものへと変わる。
そんな上司に気遣う余裕もなく、南は不穏な表情で誰もいない通路奥の壁際を見つめていた。
(消え、た?)
臭いも気配も何もない。
それはまるで、最初から何もいなかったかのように。