第10章 10
背中が見えた。
間違いない、間違えるはずがない。
何度も見た背中だった。
「朝日奈さん!」
声楽家でよかったと思う。
鍛えられた私の声は、他の人の話し声の中を減衰することなく軽々と通り抜け、見覚えのある背中に届くからだ。
その背中は驚いたように震え、ゆっくりとこちらを向く。
『さくら』
声は聞こえなかったが、口元はたしかにそう動いたように見えた。
まるで幽霊か何かを見るような目でこちらを見ている。
朝日奈さんの元へ駆け寄る。
思わずそのまま抱きしめてしまいたくなったが、すんでのところで思いとどまった。
「もう、会えないかと思いました」
震える声を必死に押さえつけ、くしゃくゃになりそうな顔を見られないように俯いてそう伝えた。
懐かしい香りと暖かさが身を包み、混乱のあまり抱きしめられていると気づくまでしばらくかかった。
「さくら」
私の首に顔をうずめた朝日奈さん声は、いつもの余裕をたたえた声色からは想像もできないほど弱々しい声だ。