第2章 貴女に愛が届くまで
そして彼女が待っているであろう場所まで走っていく。息荒く、苦しくなっても足は止まらなかった。
男は空を見上げる。美しい新月の夜だった。少し暗いような気もするが、新たな門出には丁度いい。
これから自分は幸せな人生を歩むのだ。彼女の傍らで、愛し合い、子供を作り、老後を共に過ごすのだ。
男には今すべてから祝福されているように感じた。
――この瞬間までは。
十字路から影のようにぬらっと黒い何かが現れた。しかもそれはこちらに向かってくる。男はよけようとしたが、突然のことに足が震えて動かなかった。
それは大きな馬車だった。御者は男に気づいて慌てて止めようと馬をひく。いななきが聞こえ、馬も止まろうとしたが、もう距離はなかった。馬の蹄が男の頭上にあった。
直後、何かが潰れるような音が道に響いた。馬も止まり、慌てたように御者が男に近づいていく。大丈夫かと言いながら御者は男の体をゆする。
男は目を開けたまま動かなかった。男はこと切れていた。途方に暮れたように御者は力なく座り込んだ。
すると馬者のドアがゆっくりと開いた。出てきたのは長身のシルクハットをかぶった上品な服を着た若い男だった。若い男は淡々と死んだ男に近づき、顔を見てヒュッと息を呑み込んだ。
若い男は動揺を隠せず、ハットを頭に沈みこませた。
「……何てことだ」
その声音は混乱に満ちていた。
そして男の傍らに落ちていた物を見て、若い男は目を見開く。すべてを悟ったかのように息を掃き出し、空を仰いだ。
そこからの若い男の行動は冷静で機械的だった。
まず、二つの人形を静かに拾い上げると、何事もなかったかのように御者に男を馬車の中に入れるよう命令した。御者が男を運び込んだ後、若い男は冷淡に言った。
「馬車ごと燃やして海へ捨てろ」
そのあまりの酷薄さに御者は震えあがり何度も頷いて慌てて馬車を引いていった。残った血をどうするかしばらく考えていると、ハットに何かが落ちてきた。
雨粒だった。しかも、段々と酷くなっていく。地面にはまだらに雨が落ちていく。血が、薄まっていく。それを見て若い男はくるりと向きを変えて歩いていった。
そして自らは何事もなかったかのように通りを歩いていく。若い男は傍らに二つの人形を抱えて闇へと消えていった。