第53章 セイレーンの歌
――ドクン。
突然、心臓が暴れた。
痛みはない。
けれど平静を装うこともできないような鼓動に、モモは手にしていた花束を落とした。
「きゅいッ!?」
胸を押さえて俯いたモモを心配して、ヒスイが足もとでちょろちょろ動き回る。
「……ん、ごめんなさい。大丈夫よ。」
実際、モモは大丈夫だ。
この胸に宿る心臓はモモのものではなく、ローのハート。
ならば彼になにかあったのだろうかと心配したが、原因であった心臓はすぐに落ち着きを取り戻し、とくとく息づいている。
「昨日のお酒が抜けていないのかしら?」
どうせまだ起きないと高を括って、勝手に船を出てきてしまった。
コハクに行き先を告げてきたものの、ローに知られたとしたら、嫌味のひとつくらいは覚悟しなければならない。
「エース。わたしたち、もう旅立つの。またいつ来られるかわからないけど、次に来た時にはあなたの大好きなニホンシュを作ってくるわね。」
物言わぬ墓標に語り掛け、ささやかな花束を捧げた。
海から流れてきた風がエースの帽子を揺らし、まるで「いってこいよ」と言われているような気がした。
「ふふ、いってきます。」
柔らかな笑みを残して踵を返せば、ヒスイがちょこちょこついてくる。
すっかりコハクの相棒が板についたヒスイを護衛に二人で出掛けるのは、久しぶり。
こうしていると、6年前の日々に戻ったかのようだ。
「きゅきゅう。」
「ん、なぁに?」
ヒスイ語で「転ばないでね」と注意されたのだが、言語を理解できずに振り向いたせいで、うっかり足がもつれてしまう。
「とわ……ッ」
なんてことだ。
襲い来る衝撃に備えたくても、残念ながらモモの運動能力は高くない。
地面にキスをしてしまいそうな恰好で、重力に逆らわず身体が傾いた。
しかし、目を瞑った顔面にぶつかったものは、じゃりじゃりした大地よりは柔らかく、けれどもしっかり硬いなにかだった。