第83章 掌中の珠
あまりに外が暑くて、全員揃ってざる蕎麦を注文した。店内はそんな暑さを忘れてしまう程に冷房が効いているのだけれども。
いただきます、と手を合わせると同時に涼太が口を開いた。
「なんで引越し蕎麦って言うんスかね?」
私が言葉を紡ぐ前に、黒子くんがその問いに答える。
「昔は、"おそばに越してきました、末長くよろしくお願いします"っていう意味を込めてご近所さんに配る風習があったみたいですよ」
「え、配るんスか。食えばいいのかと思ってた」
諸説あるんだとは思うけれど、私が認識していたのも黒子くんのお話と一緒だ。
昔はそうやって隣近所にご挨拶していたみたい。
「別に決まりごとがある訳ではないですからね。気持ちの問題なんだと思います」
「ま、そうっスね。美味いからいーや」
「ふふ、本当に美味しいね」
涼太と黒子くん、ふたりのやり取りはいくつになってもどこに行っても健在で、それがとても安心するんだ。皆でいると、自然と頬が緩む。
涼太とふたりきりの時の安心感とはまた別の、ほっこりするような気持ち。
夏の異様な暑さにやられて、食欲がなくなってしまう日も多いんだけれど……わさびのぴりりとした刺激と冷たいめんつゆに、コシのあるお蕎麦がつるっと喉を通っていくのが気持ち良い。
何より、誰かと……大好きなひとたちと食べるご飯って特別。
「みわ、後でお隣さんに挨拶行くって言ってたっスよね」
「うん、夏場に生ものをお渡しするのもちょっと気がひけるし、だからと言って乾麺だと味気ない気もして、無難にお菓子にしちゃった」
「ちゃんと配る辺りがさすがにみわって感じっスわ……」
ご近所さんへそうやってご挨拶することも減っているんだそうだ。確かに、地域ぐるみでのお付き合いがない現代ではそれが普通なのかもしれない。
でも……。
「どんな方がお住まいなのか、ちゃんと把握しておくことも防犯になるかなって。入居者はほぼ女性と聞いてるから、大丈夫だと思うんだけどね」
入居者募集のページに大きく書かれてはいないが、大家さんのご希望で、女性の入居者がメインなんだって。