第82章 夢幻泡影
「ちょっと、お手洗いに行って来てもいいかな」
「ん、気をつけて」
「行ってくるね」
ヒールのない靴なのに、少し足元がふわふわする。
歩いたり、長時間並んだりの繰り返しでの筋肉疲労だろうか。
それとも、少し飲みすぎてしまったかな。
涼太と一緒に居ると、何をしていても楽しくって……。
トイレに向かおうとして、気がついた。
いつも涼太は、こういうタイミングでお会計を済ませていた筈。
これはベストタイミングだったかもしれない。
いつもお世話になってしまっているし、今夜は私がお支払いを……
「お客様、何かお困りですか?」
「わっ! あの、お手洗いに、いえその前に、お支払いを」
考え込んでいたところを突然話しかけられて、まるでいたずらが見つかって慌てる子どもだ。
これじゃあただの不審者だよ。
声をかけてくれたのは、黒い腰エプロンを身につけた初老の店員さん。
少々お待ちくださいと言ってからレジの方向へ向かって行き、間も無く戻ってきた。
その手には、伝票の類はない。
「お会計は既にお済みでございます。ありがとうございます」
「……へ?」
「お手洗いをご案内致します」
「あっ、ありがとうございます」
まさかの言葉に、なんだかもうよく分からないままにお手洗いへ案内されて。
あれあれ、どういう、こと?
「涼太」
「あ、おかえりー。ラストオーダーだって。最後に一杯飲むっスか?」
「あっ、うん」
ラストオーダー、その言葉でだいぶ長い時間滞在してしまっていた事に気がつく。
「何にする?」
「うーん……この、白のサングリアにしようかな」
メニューに添えてある写真が、たくさんの果物によってなんだかとても楽しそうに見えて。
「お、いいっスね。オレは赤にしよっと」
涼太は手早くオーダーを済ませると、オレもトイレと言って席を立ってしまった。
お支払いのこと、聞きそびれちゃった……。