第74章 惑乱
「……ありがとう、涼太」
みわは、またふわりと微笑んで、それ以上何も言わなかった。
「ん、みわの気が済んだなら」
オレたちは約束通り、病室に戻ろうと、屋上を後にした。
絨毯張りの廊下を歩いていると、正面からスーツ姿の男性が歩いてくる。
ここに居て、初めて看護師以外の人間に会ったな、なんて特に気にせずいたけれども……
よく見ると、見覚えのある人物だった。
「……おや、黄瀬涼太君かい? こんな所で会うとは、奇遇だね」
「どもっス」
とある芸能プロダクションでマネージャーとして働いている男だ。
売り出したいタレントをゴリ押しする事務所と有名で、関係者からは大層嫌われていた。
ということは、担当するアイドルかなんかが入院しているのだろうか。
「最近またモデルの仕事も少しずつ始めたみたいだね。お隣は彼女さんかな?」
「……あー、ハハ」
何度かモデルの現場で顔を合わせた事があるくらいで、特別親密なワケでもない。
詮索するようなその物言いが気に食わない。
相手にするのはやめて、軽く挨拶だけしてすれ違った。
みわを好奇の目にさらしたくなかった。
「みわ、……どしたんスか?」
気付けばみわは、オレの後ろに隠れていた。
「な、なんでも、ない……」
袖を掴んでいる手は震えている。
先ほどまでとはうって変わって、顔は蒼白い。
聞けば、スーツ姿の男性に恐怖を覚えたという。
一般的なサラリーマンの戦闘服であるスーツが怖いとなると、尚更外になど出れない気がして、また心配になった。
「もう行ったから、ヘイキっスよ。大丈夫? 歩ける?」
「うん、もう平気。ごめんなさい」
何度もごめんなさいと謝るみわを支えながら、病室へと戻った。