第73章 散華
そっと、衝立から顔を覗かせる。
机の周り、窓際、入り口……無人だ。
しんと静まり返ったそこは、まるで異世界のように現実味がない。
ほんの数分前とは全く違う状況に、感覚が麻痺し始めている。
そろり、足を踏み出す。
古いタイルがわずかにキュッと鳴り、心臓が跳ねた。
大丈夫。
誰もいない。
「スズさん」
強く手を握り締めたまま、スズさんと目を合わせると、彼女は不安げに頷いた。
1歩、2歩。
キョロキョロと辺りを見渡しながら、慎重に。
突然、左足に衝撃が走る。
続けて、バサバサという音。
驚いて足元に目をやると、積み上げられた雑誌が崩れているのが目に入った。
どうやらこれが、足に引っかかってしまったらしい。
しまった……今の音で気付かれた?
でも、変わらず人の気配はない、大丈夫だ。
前ばかり見ていて、足元を掬われたら意味がない。
慎重に、慎重に……
突然、プルルルルという電子音が響き渡る。
「ひっ!」
スズさんが思わず悲鳴をあげ、立ち止まった。
……電話だ。
どこかの事務机にある電話が鳴っている。
「……先輩、戻って来たらどうしよう」
確かに、この音を聞いて人が戻ってくる可能性が高い。
どうしよう、戻るべき?
やめたほうがいい?
足が、動かない。
どうしたら、どうしたらいいの。
迷っている暇はない。
男たちが戻って来たらきっと、私達に選択肢はなくなる。
「行こう、スズさん」
ここから、出なきゃ。
なんとしてでも、どんな手を使ってでも。
再び足を踏み出したら、電話の着信音も止まった。
ホッとため息ひとつついて、ドアノブに手をかける。
エレベーターに乗ってしまえば。
幸い、ドアからエレベーターまでの距離はそれほど長くない。
逸る気持ちをギリギリまで抑えて、軋むドアから身体を滑らせた。