第73章 散華
「みわ、もう大丈夫」
その優しい声に、背中を撫でてくれる大きく温かい手に、胸が詰まる。
怖い夢を見て吐くなんて、いつまでもこんなの……。
「ごめん、っ、なさい」
「気にしないでいいんスよ、もう戻る?」
自分が犯した失態を改めて認識し、周辺を汚してしまっていないかを確認してから霧状の消臭剤を撒き、トイレを後にした。
洗面台で口をすすぎ、涼太の部屋に戻ると、彼はマグカップを2つ持ち、戻って来た。
立ち上る湯気からは、オレンジの香り。
カップをテーブルに置いた際のコトンという音が予想以上に静かな部屋に響き、肩を竦めて驚いてしまった。
「これ、オレンジピールティーだって。貰ったんスよ。気持ちが落ち着くって」
「ありがとう。いただきます……」
ふうとひと吹きしてから口に含むと、ほんのりオレンジの香りと風味が、口内を満たしていく。
冷えた身体に、じんわりと浸透していくようだ。
同時に、こころの中に澱のように沈殿していく、重く暗い感情。
「みわ、もう姉ちゃん達帰って来るみたいだけどさ、今日は帰る? 無理することないっスよ」
その言葉でようやく気付いた。
部屋の中を明るくしているのは、蛍光灯の光だけではない。
もう、すっかり日が昇ってしまっていた。
「……大丈夫! ちゃんと新年のご挨拶したいし!」
これ以上心配かけるわけにはいかないし、みっともないところを見せてはいけない。
「でもさ」
「ただいま〜!」
涼太の心配する声を遮るように、玄関のドアが開く音に続けて、ガサガサという袋の音や、ゴロゴロとキャスターが地面を滑る音が聞こえる。
「げ、もう帰って来た」
「涼太! いんの〜!?」
下のお姉さんの声だ。
明るくて、通る声。
「いるよ! あーもう、ちょっと行ってくるから待ってて」
涼太はわしゃわしゃと頭をかきむしると、部屋を出て行った。