第9章 鴉の腹を肥やす
「…アハハッ!相変わらずだね伊鶴ちゃん 」
「え、え?」
「んーん。こっちの話」
頭上に疑問符を浮かべる伊鶴に、及川は只笑みを浮かべる。解れた糸を丁寧に繕うかのような気遣い。IHという張り詰めた空気の中でも、それが変わらない伊鶴に何だか安心感に似たものを感じた。
及川は救護スタッフから氷嚢を貰いに行き、タオルを巻いて伊鶴に渡した。
「それで、大丈夫なの?さっきの。何か詰め寄られてたみたいだけど…」
「何かあったなら、先生達に報告するべきだぞ」
「! い、いえ!その必要は全くないです!無い、んですけど…」
純粋な心配から言葉を掛ける及川と岩泉。対する伊鶴は狼狽えた様子で言葉を濁す。身を縮こませ、悩むようにして口元を抑える姿には何か切々と迫るものがあった。
「……言えない?」
「すみません…」
「そっか。なら、全然大丈夫!ごめんね、困らせるような事聞いちゃって」
「いえ、謝るのは私の方です。すみません」
絞り出す様な声で謝る伊鶴を前にして、2人は何も言えなかった。まして、それ以上追求するような事も口に出来ない。
今にも倒れそうな程に彼女は顔を曇らせていた。触れてはいけない、触れて欲しくない何かに指先が当たってしまったのかのように。
「あ、あの!引き留めてしまってすみません…今日は大事なIH予選なのに…」
「全然!寧ろ引き留められてラッキ、ッッィイ!!」
──────スパァンッッ!!
「殴るぞクソ川」
「もう殴られてる!!!」
頭を跳ね飛ばす勢いの鋭い手刀が、及川の後頭部に炸裂する。何とも心地良い音が響く。
「これは叩(はた)きだ」
「どっちも一緒じゃん!!」
「違うぞ。アクエリとポカリくらい違う」
「いや一緒だよッ!!!」
後頭部を抑えながら言い返す及川だが、岩泉は表情を崩さずに言葉を並べる。グッピーも死ぬ程の温度差の違いに及川は不安にすらなった。
因みにアクエリアスは運動時の水分補給向き、ポカリスエットは体調不良時に向いている。
「ふっ、ふふっ」
「「!」」
小鳥の様な笑い声に、2人はパッとそちらに顔を向ける。見れば、伊鶴は声を潜ませるようにして笑っていた。