第9章 鴉の腹を肥やす
『あれっ、伊鶴ちゃん?』
『あ。ハンカチの乙女だ』
『バッ、まっつん!』
『モガッ』
「? あっ…」
厳粛な雰囲気に似つかわしくない会話を耳が拾う。声の方を見ると、そこには気まずそうに顔をする及川さんと目が合った。アワアワしてるらっきょさん、笑いを堪えて肩を震わせているチームメイト達。何この状況。
思わず固まっていると、
ピ───────ッ!!!
「「「お願いしァ────スッ!!!」」」
ホイッスルと共に選手同士の挨拶が響き渡る。IH予選の幕が切って落とされた瞬間だ。
「始まっちゃった…」
観客席の柵に掴まり、コートを見下ろす。我ながら緊張感のないセリフだと思ったが、仕方無い。数秒前に緊張感がバイバイしてしまったのだから。
整列していた皆が一旦捌けていく。その時、日向が観客席を見上げて影山さんと何かを話しながら、キョロキョロと見回す。何か探しているのだろうかと彼の様子を見詰めていると、大きな瞳とバチッと目が合う。すると日向は「瀬戸いた!」とパアッと太陽みたく顔を輝かせ、私に向かってブンブンと手を大きく振る。
私を探していたのか。それに気付き、少し恥ずかくなるが控えめに手を振り返す。彼の隣にいた影山さんは手を振ることはなかったが物凄く見詰める、というかほぼ睨むに違いが視線を送ってきた後にビュッと正拳突きかと思う勢いで拳を私に向かって突き出してきた。さっきのグータッチの踏襲だろうか。そんな2人の行動から私に気付いた他の皆も、通り過ぎざまに手を振ってくれたり、ピースをしてくれたり、或いはグータッチの踏襲で拳を振り上げてくれたりする。ファンサ過多で照れてしまうが、やはり嬉しいものだ。
「────伊鶴ちゃん」
「! お、及川さん!」
耳元で声がした。バッと見れば、いつの間に立っていたのか。爽やかだがどこか胡散臭い笑みを浮かべた及川さんが、一歩間違えたら触れ合ってしまうような距離まで顔を近付けていた。それはもう世の女子が放っておかないくらいのご尊顔が。絶対宮城産じゃないだろその顔面。そう言いたくなるくらいの美が目と鼻の先にあったので反射的に後退りしてしまう。