第1章 一、後押し。
「彼女に何してるの。」
突然、私の視界に綺麗な長い髪が入ってきた。
太陽の光に透けるような、淡い緑が印象的で、かすかにニカワの匂いが鼻をくすぐる。
抱きつきたくなる背中は、藤田さんから私を守ろうとしていて、いつものように表情は確認することが出来ない。
「…特段何もしてはいない。昼間からフラフラと、若い女が歩いていたから注意をしただけだ。朧の刻には物の怪のみならず人攫いの事件もこの界隈では起きているからな。…その娘が大事なら、よく見張っておくことだな。」
声を荒らげることもなく事務的に藤田さんは話し終えると、通り過ぎる一瞬だけ、私に視線を向けただけで行ってしまった。
その間も春草さんは藤田さんに警戒した態度を崩さず、数メートル先の曲がり角を曲がって姿が見えなくなるまで動かずにいた。
「春草さん、お早いおかえりでしたね。…おかえりなさい。」
「君さあ、もっと意識した方がいいよ。」
肩の力が抜けたところで話しかけると、どこで小言スイッチが入ったのか分からないけれど、そんな声が返ってくる。
不思議に思って見上げると、何とも言えない表情をした春草さんと目が合った。
「…意識とは?」
「説明しなきゃいけないの?…はぁ、もういいよ別に。それより、君はもう昼食は食べたの?」
「昼食…。」
「まさか、お昼まで寝ていて、朝食と昼食が同時になったなんて言わないよね?」
見ていたんじゃなかろうかと思うほど的確に当ててくる。
図星をつかれた私は、ぐっと言葉に詰まってしまった。
「はあ…居候のくせに、君ってほんと、」
図々しいよね。
想像していた通りのセリフと声のトーンに、思わず笑みがこぼれる。
すると、春草さんは一気に怪訝な顔に変わった。
「別に今のは冗談でも何でもないよ。言われて嬉しい言葉でもないだろうに、君、やっぱり変わってるね。」
「だって…。」
「…君はもうお腹は空いていないんだろうけど、俺はもうペコペコなんだ。どこに行くつもりだったのか知らないけど、一旦家に戻ろう。」
自然と手首を掴まれて、ズルズルと連行されていく。
以前の春草さんならきっと、ここで私を連れ戻したりはしなかっただろう。
少しは関係が変わったのかな…なんて考えながら、私は春草さんと一緒に屋敷に戻った。