第1章 僕は君のことを知らない
翌朝。
松井ちなみは階段の踊り場に現れた。
僕の姿を見つけて満面の笑みになる彼女。
その姿はもちろん美しくて…
思わず後ずさりしそうになった。
「お、おはよう」
なんとか挨拶を発する。
「おはよう。食べた?」
彼女もニッコリ笑って挨拶する。
「食べたよ」
僕は答える。
「…どうだった?」
彼女の顔が無表情な美しい表情に変わる。
あの日、僕にバレンタインの箱を渡したときと同じ顔。
そうか、これは緊張している顔なんだ。
僕はなんとなく納得する。
「美味しかったよ。とても」
僕の答えに彼女の頬がふっとやわらぐ。
僕の言葉で彼女のその美しい顔が変化する。
そんな事実が僕を高揚させる。
僕は彼女に尋ねる。
「もしかして、あのクッキーは君の手作り?」
そわそわと弾む気持ちが僕を饒舌にする。
「うん」
小さな声で彼女が頷く。
はにかんだ様子が愛らしい。
初めて彼女に美しい以外の感想を持った。
「とても上手なんだね。あの…その…美味しかったよ、本当に」
会話をしたい気がするのに、気のきいた言葉が出てこない。
さっきと同じことしか言っていない!
つくづく自分がもどかしい…。
「私と付き合ってくれる?」
「えっ」
彼女の発した言葉に耳を疑う。
いや、はっきりと耳には届いたんだけど、内容が理解出来ないというか、いや、わかるけど…
えっ? えっ?
「鈴木くん、私と付き合ってください」
朝の学校。2年の教室へと向かう階段の踊り場。行き交う生徒。
ざわざわとした空間で、僕の耳にはっきりとその言葉は届いた。
ここは踊り場で、階段はないのに、足もとの階段を踏み外しそうな感覚が僕を襲う。
「…だめ?」
上目遣いで彼女が僕の顔をのぞく。
……!
それはなんというか…僕の身体に直接届く。
あまりにも直接届く一撃だ。