第1章 あいことば
落ち着いた優しい声であの老婆へと掛けた一言に彼女のすべてが詰まっているような気がして、何度も何度も彼女の声を自分の脳内で反響させながら、帰りの電車で目を瞑る。彼女にもう一度会いたい。あの笑顔をもう一度見たい。彼女と話がしてみたい。欲求は尽きることなく、俺はその日、恋に落ちるという感覚を初めて体感したのだった。
朝が同じ電車だったのでもしかしたら帰りも会えるかも、なんて甘い考えは見事に打ち砕かれた。今日初めて彼女を認識したので、毎日あの時間の電車に乗っているのかすら分からない。それまでの自分を殴ってやりたい衝動に駆られながら、淡い希望を抱いて昨日と同じ電車に乗車する。同じ時間帯の電車、同じ車両。ドキドキと鼓動が音を立て、今か今かと流行る胸を抑え、電車内へ。ぐるっと車両内を見回すと、
(…いた。)
昨日と同じ座席に、昨日と同じように本を広げた彼女がいた。周囲の人間に押しやられるまま彼女の目の前へと移動し、吊革に掴まる。あまり見つめすぎると彼女に気付かれてしまうかもしれないと思いながらも、視線はどうしても彼女へ注がれていく。
その日から、俺は毎日同じ時間に起きて、同じ電車の同じ車両に乗り、彼女が降りるまでのその時間を彼女を見て過ごすようになった。たった20分足らずの間、ひたすらに彼女への恋心を高鳴らせながら。