第1章 あいことば
その後のチラチラと彼女の動向を盗み見ながらも、俺は胸の高鳴りを抑える事が出来なかった。電車で老人に席を譲った女性なんて、今まで何度だって見てきたはずなのに。その度に胸がほっこりする気分を味わうが、今の様な動悸を道連れにしたことなど一度もなかった。自覚してしまうと一気に恥ずかしくなるもので、赤くなる顔を隠しながらチラリともう一度彼女を見る。すると彼女は手にしていた本を鞄へと仕舞い、音楽プレーヤーを指でなぞっていた。え、と思った時には電車が停止していて、流れる人に逆らうことなく彼女は颯爽と消えてしまった。彼女が降りる事に気付いた老婆が再び頭を垂れ、彼女は笑顔で言い残した。
「お気をつけて。」
間もなくドアが閉まり電車が動き出す。ハッと電光板を見ると、俺の降りるはずの駅の三つ前だった。今から仕事なのだろうか。若そうに見えたが制服は来ていなかったし、高校生ではないだろう。しかし綺麗に化粧はしていたので、大学生か社会人か。勝手に彼女の職業や年齢を予想していたら、あっという間に駅に着き、気が付いたら学校だった。未だにドキドキと高鳴る胸を抑えながら朝練を終えて、慣れないその感覚にむず痒くなった。今まで誰かを想ってこんな感覚に陥った事なんて無かったし、寧ろ一目惚れすらしたことが無かった。授業を受けていても、昼食を食べていても、練習に出ていても、彼女の笑顔が頭から離れない。