第1章 あいことば
無駄な動きなど何ひとつ無いままに、今まで自分が座っていた座席を老婆へと譲ったのだ。読んでいた本をするりと自身の鞄へと仕舞い、引け腰になる老婆を優しく促して座席へと移動させる。流れる様なその動きに、俺は目を離せずにひたすら彼女の笑顔を追っていた。
こんな満員電車で身動きすらなかなかとれない中、幾ら年配の方が乗ってきたとはいえここまですんなりと席を譲れる人間がどれだけいようか。増して、彼女は読書の最中で忙しい朝の時間帯に漸く座る事が出来ていたはずなのに。老婆は何度も何度も彼女へ頭を下げながら、目元の皺を余計に際立させつつ小さく言った。
「ありがとうございます。」
その言葉を聞いた時、彼女は今まで一番優しく眩しい笑顔で首を振った。不快な表情など、ひとつも見せることなく。そして自らも小さく老婆へ会釈をしてから、近くの取っ手に掴まり音楽プレーヤーを取り出した。もう一度仕舞い込んだ本を手元に戻し、器用に立ちながら読書を続ける。その横顔を食い入るように見つめている自分にハッと気付き、俺は何事もなかったかのように再び自分のスペースを確保する事に専念した。
恋に落ちるにはあまりにもありきたりな出来事だった。けれど、俺にとっては雷に打たれたような衝撃だった。