第8章 第八話
木手はその先の言葉をつづけるのが怖かった。
自分でなく、他の誰かを、彼女が選んでしまうのが怖い。
『素敵な彼氏』だと思ってくれているのなら、このまま関係を続けてくれればいいのに。
叶わない願いだと分かっていながら願わずにはいられない愚かしさに、木手は自分がどれほど彼女を愛しているか痛感させられた。
今まで木手が別れを告げた彼女達も、こんな気持ちだったに違いない。
逆の立場になって初めて、木手はその辛さがどんなに辛いものなのか、はっきりと分かった。
「…他に好きな人ができたの」
追い打ちをかけるように如月の口から聞きたくなかった言葉を告げられた木手は、黙ったまま俯くしかなかった。
心の中ではひどく叫ぶ自分の姿があったが、彼の矜持がかろうじてそれを心の中だけに押しとどめていた。
ぎゅっと握った如月の小さな頼りない肩、木手の手に触れる彼女の柔らかな髪、香る甘いシャンプーの匂い。
全部自分の物にしてしまいたかったのに、出来なかった。
掴んだと思ってもするりと腕をすり抜けていく彼女。
何故掴めなかったのか、その理由がようやく分かった気がした。
彼女の気持ちは大分前から、自分に向いてはいなかったのだ。
だからいくら追いかけても追いかけても、気持ちが満たされることがなかったのだ。
どこか納得のいった木手は、それでも叫び続ける心に重石をつけて胸の奥底に無理矢理沈めた。
黙ったまま俯く木手に如月も声をかけられないでいた。肩に置かれた手の力がギリギリと強くなり、痛みに顔をしかめるも、如月は黙ってその痛みに耐えていた。木手の心の痛みに比べたら、こんなものなんでもない。如月はそう思っていた。
(もっと早くに言うべきだった。…ううん、そもそも告白を受けるべきではなかったんだ…)
そういくら如月が後悔しても、過ぎた時間は取り戻せない。
だからせめて木手の気が済むまで、このままこの痛みを受け入れよう。
償いにはならないけれど、木手へのせめてものお詫びとして。
長い長い沈黙の後、木手は「分かりました」と短く答えて、くるりと踵を返して元来た道を戻って行った。
その動作があまりにもあっさりとしたものに思えて、如月は拍子抜けしてしまった。