第5章 慶応三年二月十四日
縁側には誰もいなかった。やはり野良猫かと思いはしたが、念のため闇に包まれた庭に向かって声をかけてみる。
「山崎さん…?」
実桜の声に導かれるかのように、暗闇から黒装束の男が現れた。口元を黒い布で覆っているが、見慣れた顔がそこにはあった。
「いらっしゃい山崎さん。来て下さってありがとうございます」
「遅くなってすまない。少し仕事が長引いてしまった」
山崎の珍しい物言いに実桜は少し驚いた。いつもの山崎ならこんな言い訳めいた事は決して言わない。黒装束のままという事は、本当に仕事帰りなのかもしれない。
「寒かったでしょう?上がって下さい。熱いお茶を淹れますから」
「いや、女性一人の家に上がる訳にはいかない。ましてやこんな時間だ。俺はここでいい」
生真面目に断る山崎に向かって、実桜は少し強い口調で言った。
「上がって下さい。もし山崎さんが風邪を引いたりしたら、困るのは土方さんです。私は土方さんを敵に回す勇気はありません」
「だが…」
尚も断ろうとする山崎の言葉を遮り、実桜は更に口調を強めて言う。
「上がって下さい。それにここで押し問答している方がご近所から変に思われます」
「…わかった。お邪魔しよう」