Destination Beside Precious
第9章 7.Life and non-Life ※
「ん?」
そろそろ寝ようと思いリビングの電気を消したとき、汐は夏貴に声をかけられた。
「どうしたの?」
ルームランプの暖かな光の中に立つ夏貴。
室内に充満する宵闇を吸い込んだ夕陽の瞳に見つめられる。
それは夕刻から夜へと変わる時間…逢魔の刻が宿す空の色の瞳で、汐は一瞬背筋に冷たいものが走る感覚に襲われた。
「高校、無事受かったよ」
夏貴の口から出たのは合格の報告だった。
弟の表情に恐怖のような形容し難いなにかを感じたのは初めてだったが、その口をついて出たのは良い報告で汐はほっと胸をなで下ろした。
「そっか。よかった。おめでとう」
「ありがとう。実技の推薦基準タイムは余裕でパスできたし、学科試験も簡単だったよ」
夏貴は唇の端を歪めた。皮肉混じりの笑みで手に持っていた茶色の封筒をダイニングテーブルに置く。
「姉さん」
間接照明しか明かりのない部屋に夏貴の声が響く。
耳によく馴染んだ声はこのときいつもより低く感じた。
呼ばれて振り返った汐はそのまま抱きしめられる形で夏貴の胸の中にいた。
「夏貴…?どうしたの…?」
「春から離ればなれになるね…」
「そうだね」
「…姉さんは寂しくないの?」
いきなり抱きしめられて驚いたが、夏貴はまだ15歳だ。ずっと一緒に生活してきた〝姉〟が恋しいのだろう。
汐はそう解釈して抱きしめる、という行為を受け入れた。
「寂しいに決まってるよ」
「4月から姉さんに当たり前のように会えなくなるなんて僕は嫌だ」
僅かに震える声で夏貴は言った。
抱きしめる腕に心做しか力が入ったような気がした。
「あたしも嫌だよ。でも、会えるよ」
進学での別離はどうしようもない。汐は夏貴を宥めるようにそう言った。
「あたしも弟離れするから、夏貴も姉離れするんだよ」
「そんなの…」
後に続く言葉を夏貴は呑み込む。
姉は、松岡凛という存在が現れてから変わった。
もともと誰よりも可愛いかった姉は、その魅力に更に磨きをかけた。
嬉しい反面、胸には黒い炎のようなものが燃える。
しかし、こんなことを思っていてもどうしようもない。
頭ではわかっているが、気持ちがついてこない。
「もう遅いからあたしは寝るね。夏貴もはやく寝るんだよ。…おやすみ」
そう告げて汐は夏貴のもとを離れた。
扉の奥に消える姉の背を見つめる夏貴の姿は鬼に憑かれたようなそれだった。