第3章 帰京
「憶えているか潮里?小学一年の時のことを」
突然「彼」が話しかけてきた。「彼」の眼は私ではなく遠くを見ていた。
「一年生の時…ですか?」
「ああ、一緒に家の庭で遊んでいた時に潮里の帽子が風に飛ばされて木に引っかかったことがあっただろう」
いきなり昔話を振ってくるので少し驚いていると、「彼」は小さく苦笑して視線を落とした。
「他愛も無いことだ。もう忘れていてもおかしくない、か」
「いいえ、憶えていますよ。あの時は確か征十郎さんが木に登って帽子を取って下さって…」
「そうだ、その後僕が木から降りられなくなって少し騒ぎになった時のことだ」
少しどころの騒ぎではなかったような気がする。世話役の荻野さんが庭師から梯子を借りて来て、使用人達は必死で木の周りにマットを敷いていた。私は事が大きくなってしまったことに驚いて大泣きしていたし、私の両親は顔色を青くしていた。周りの大人達が皆慌てている中で唯一落ち着いていたのが彼の母親だった。
「あの時は確かおばさまが降ろして下さったんでしたね」
彼の母親は木の上の彼に指示を出し始めた。その指示は的確で、彼は自力で木から降りてきた。無事下まで降り立った時の周囲の大人達の安堵の顔を今でも憶えている。そして帰宅してから両親にこっぴどく怒られたことも。あの頃の彼はまだ子供らしさが残っていたような気がする。