第10章 急転直下(銀八side)
先生のデスクの上にノートを置く。
「運んでくれてありがとう。助かったわ」
いや、俺一人でやるはずの仕事だったのに、半分運んでくれたのは先生の方だけど。
「愛里先生」
「ん?」
「今、授業で『こころ』をやってるじゃないですか。他に夏目漱石の小説でおもしろいものがあったら教えてほしいんです」
先生は瞳をきらきらさせた。
「ほんと?どういうのがいい?」
文学の話になると、先生の顔はいつも煌めく。
「その女のことが好きという自覚すらできないチェリーボーイの話とか、妻の貞操を確かめるために自分の弟に妻と過ごすように言う病んだ兄の話とか、『こころ』みたいに三角関係から略奪愛した夫婦の心理的すれ違いの話とか、色々あるわよ」
「……先生、話の要約の仕方がすごすきるんですけど」
「だって、本当にそういう話なんだもの!それとも、『坊ちゃん』とか『吾輩は猫である』とか、そういうのがいい?」
「じゃあ、チェリーボーイの話で」
「あはは。坂田くんからは一番遠そうな主人公だけど、いいの?」
「いやあ、ボク、チェリーボーイなんで、おベンキョウさせてもらおっかなって」
「……あー、疲れてるのかな、私。なんか幻聴聞こえたかも」
「じゃあ、よく聞こえるように、耳元でもう一度囁いてあげましょうか」
「うん、チェリーボーイはそういうこと言わないよね」
「耳年増ってやつですよ」
「あっそ」
軽く流された。
「ちょっと待ってね、この奥にあるはずなの」
愛里先生は奥の本棚の前で靴を脱ぎ、小さな丸椅子の上に立ち、本棚の一番上に手を伸ばす。
先生の背の高さでは、つま先立ちしてやっと届くかどうか、というところだ。
「あぶないですよ、先生。場所を言ってくれれば、俺が取りますから」
俺がそう言いながら近づいた時、本棚の上から、様々な色の長い筒が転がり落ちてきた。
「わっ」
「だからあぶないって!」
バランスを失った先生は、近づいた俺の左腕をとっさにつかんだ。
俺は左腕で先生の身体を抱きかかえて支え、右手で転がり落ちてくる筒から先生を守る。
模造紙や色画用紙の筒だったらしく、大きさの割に腕に衝撃はほとんどなかった。
左腕で抱えていた先生の腰に、右腕も回す。
先生は俺の左腕にしがみついたままだ。
丸椅子の上にアンバランスに立っていた先生の身体を真っ直ぐにする。