第7章 夏の終わりのエトセトラ(銀八side)
「ほら、もう、よい子は帰る時間みたいよ」
俺から離れたところから、先生がからかうような声で言った。
「俺、よい子じゃないもん」
俺はソファにどすん、と腰を下ろして膝を抱えるようにした。
そのあまりのいじけた態度がおかしかったのか、先生はクスクス笑っていた。
「その格好、本当に犬みたいで可愛いんだけど」
どうせ先生にとっては、俺なんて、犬みたいなもんなんだろう。
そう思うと、ますますいじけた気分になる。
「じゃあ、そんな可愛い生徒に、特別に宿題です」
「え?」
「『こころ』の上・中の語り手の青年の恋愛経験について述べよ」
「え?そんなの書いてありました?」
「ヒントは、『書いてない経験を読み取る』こと。熟読して、授業始まる前にわかったら、特別に坂田くんにだけ授業してあげる」
え?それって、また国語科資料室に来てってこと?
先生は、持っていたマグカップから一口コーヒーを口に含む。
そして、ソファに座っている俺にすっと近寄った。
夏服のネクタイを握って、俺の顔を少し上へ向ける。
え?
先生が俺の顔をのぞきこんでいる。
先生の瞳の中に、驚いた表情の自分が見える。
目を見張っている間に、先生の顔が近づいてきて、やがて見えなくなった。
唇に柔らかい感触があったかと思うと、その間から、ゆっくりと液体が流れ込んでくる。
口の中に広がる香り。
苦い。
けど甘い。
飲み込んでしまうのが惜しいような。
このまま時が止まってほしいような。
それは、ほんのわずかの時間だったのかもしれない。
こくん、と喉を動かすと、柔らかい唇の感触が消えた。
再び先生の顔が視界に入った。まるで泣く寸前かのように、潤んだ目をして。
生徒相手に何をしてるんだろう、そういう後悔が胸に押し寄せているのだろうか。
「先生……真っ赤だよ」
「……」
「ごほうびありがと、先生、すげえ嬉しい」
「……」
「じゃあ、今度は俺がいちご牛乳飲ませてあげる」
「ちょっ……」
「『こころ』熟読してくるから。ね」
俺は先生の真っ赤な顔をのぞきこんで言った。
ねえ、先生。
少しだけうぬぼれていいのかな。
先生にとって、俺は、そこらへんの生徒とは違う、「ちょっと特別な生徒」だって。
先生の心には、少しだけ俺の居場所があるって。
うぬぼれでもいいから、今はそう思わせて。
それだけで俺は、幸せだから。