第41章 はるかぜとともに(澤村大地)
「どうかしましたか」
後ろからの声にハッとする。振り向くと、不動産屋のおじさまが怪訝そうな顔をしていた。「外に気になるものでも?」
入り口近くの扉から、光が差し込むこちらに向かって近付いてくる。
「あ、えっと……!」
何と説明したら良いか分からず、あたふたしている私の横に立つと、おじさまは窓の上枠に手をかけるようして外を見渡した。
「あぁ、猫ですか」
納得したような、ため息のような言葉を漏らした。
猫、っていうか、と私が視線をスライドさせると、隣の窓からあの人の姿は消えていた。その下で、猫だけが幸せそうにじゃれ合っている。
「あ、あれ?」
「住人の誰かが餌をあげてしまうから、居付いちゃうんでしょうね。野良猫はあちこち汚して悪さするので、大抵のアパートでは追い払うようにしてるんですけど」
不動産屋のおじさまは、苦笑して部屋の中へと身を引いた。けれど私は、何かに取り憑かれたように猫のいる風景から目を離せない。
「迷惑に感じたら、管理会社に連絡するようにしてください。猫好きなら良いんですけど、夜は煩いと感じる人もいるみたいでして―――」
流れるように話す声が意識から遠ざかっていく。隣の窓から、そろりと男の人がまた顔を出した。
あ、と私は身を乗り出す。
その人は私に向かって、しーっ、と唇に人差し指を当てた。優しそうなお兄さん、っていう感じの人。私より1つか2つ年上に見えるけれど、いたずら少年みたいな目をしている。見とれているうちに、キュ、と唇の両端が上がった。
その時、私の胸に満ちていたのは幸福感だった。心が温泉に浸かったみたいに柔く緩んでいく。
決めた。
「迷われているなら、もう一個のアパートも見に行ってみますか?」
おじさまの提案は親切だったけれど、もう私には必要なかった。首を横に振り、ここにします、と答える。春風が背中を押してくれるようだった。
「ここに住みます、私」