第35章 瓶詰めラット(矢巾秀)※
快感が溢れそうな一歩手前で、なまえの足の動きは止まった。
恨めしさに顔をあげると、彼女は、ぼうっと窓の外を向いていた。
黄昏時の校舎から、ちょうど水瀬が出ていくのが見えた。駐車場へと向かう、後ろ姿。それを見つめるなまえの横顔。
あぁ、と思った。あぁ、これを見るために、こいつ、いつもここへ来てたのか。気がつくのが遅すぎて、矢巾は泣きそうな気持ちになる。
「月、水、金は私の日なの」なまえが掠れた声で言った。「他の曜日は教えてくれない」
やっぱり、と思った。
「あのネクタイピン、お前があげたんじゃないんだな」
なまえの眉根が綺麗に寄った。あ、泣く、と思った瞬間、彼女は近くの机を思い切り蹴飛ばした。
倒れはしなかったものの、均等を保っていた机同士の間隔は、盛大な音を立てて崩れた。
「可哀想だと思っていいよ」
床に転がっていた靴をつっかけ、彼女は吐き捨てるように言うと、教室から出て行った。
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卍
研究用ラットたちには個体差があった。諦めの早い奴と、悪い奴。
ラットに信念などあるのかはわからない。けれど、過去に追い込まれた状況から自力で脱出できた経験がある個体は、全て体力の限界まで泳ぐことを選択していた。
早々に諦めて溺れていくのは、過去の成功体験が無いラットたち。
蕩ける闇が教室中を満たしても、矢巾はその場から動けないでいた。
現状は自分で打破できると信じている人間は、諦めずにどこまでも食い下がる。
でも成功体験の無い奴はどうしたらいい?
一体なまえをどうしたいのか、自分でもわからなかった。
水瀬が話した瓶詰めラットは、最後にはみんな水に溺れて死んでしまう。すべては実験だったから。
冷たい窓に額をつけて、熱の冷めない身体をもて余す。
透明なガラス瓶の水に浮かんだ、青白い毛並みの背中が、閉じた瞼の裏から離れなかった。
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おしまい